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大田郷(中世)


 鎌倉期~戦国期にみえる郷名。名草郡のうち。太田とも書く。日前・国懸宮領神宮郷。嘉禎4年9月25日付の,日前・国懸宮がその神領の範囲を記した日前国懸宮四方指(日前宮古文書/和歌山市史4)に,日前・国懸宮の神領の西境界として,「小宅郷西島西畠,大田郷西畠,吉田郷本畠新畠」が見え,西に他領雑賀荘,園豆・鈴丸と接していたことがわかる。永仁3年3月に日前・国懸宮が所領神宮郷に対し一斉に検注を行った時の大田郷検田取帳(鎌遺18784)と検畠取帳(日前宮古文書/和歌山市太田黒田地域総合調査地理歴史調査概報)では,74町6反40歩の田地,45町9反50歩の畠地が記されている。畠地としては,神官・神人・雑色・職人などの屋敷地が多くみられるが,また川成・不作・蒔捨など不安定耕地も多い。当郷には百姓名はなく,刀禰名公事料が見える。神官・神人・職人などの給免田・同宮の供田が多く,他に寺社田として,成福寺・長福寺・報恩寺・浄土寺・神宮寺・黒田堂・地蔵堂・大田堂・遊慶大日堂・持仏堂・南天神の田畠がある。なお,地字名に「アラウチ」が見えることから近世の新内【あろち】村の地が当郷内に属していたことがわかる。至徳3年の金剛山報恩禅寺内検帳(同前/国立史料館蔵)では,報恩寺の田畠8反を記す。また,永仁3年の諸郷奉分田所当注文(同前)では,定田1町4反230歩,その分米4石3斗2合1夕,そこから除米4石5升を差し引いて定米2斗5升2合1夕となっている。除米としては本荷前・新荷前・臨時御祭饗料・同御祭召布代を記す。荷前田は,建長2年11月2日付および11月日付で神宮郷荷前田・新荷前田の員数を記した注進状(同前)では,本荷前田4反,新荷前田2反が見える。当郷は,日前・国懸宮の神宮郷として,同宮に神事・祭事その他種々の奉仕をしている。応永2年閏7月25日付の紀行文譲補雇夫注文(同前)では,紀行文の国造職譲補のときに用いた雇夫71名のうちの2名を大田刀禰が出している。天文10年正月21日付の日前宮井祭頭役次第(日前宮古文書/和歌山市史4)では,井祭の頭役を4番につとめている。さらに,永禄11年などの流鏑馬射手注文并年貢日記(同前)でも流鏑馬射手として当郷の者とみられる植松氏が見える。戦国期になると当郷を含む神宮郷は雑賀一揆に加わり,雑賀五組の1つ社家郷(宮郷)を構成した。天正5年に織田信長は雑賀を攻めるが,天正4年と推定される5月19日付の織田信長朱印状(太田家文書/和歌山市史4)によれば,当郷の太田源三大夫が信長に内応し,また同じころ宮郷・中郷・南郷の3組も信長に忠節を誓っている(同前)。信長は天正4年5月には「紀伊国大田」に,天正5年2月には「大田村」に対し禁制を出している(同前)。そのころのものとみられる正月24日付本願寺顕如書状(井坂蓮乗寺文書/和歌山市史4)には「大田在所之内,志之同行」とあり,当郷に一向宗門徒がいたことがわかる。ルイス・フロイスの「日本史」によれば,天正13年3月,豊臣秀吉は紀州に出兵し,根来・粉河【こかわ】・雑賀を攻略したが,その後約1か月にわたって太田党を主力とする雑賀一揆の一部は「太田城という,すべての中でもっとも重要な主城」に立てこもって抗戦を続けた旨が記されている。「続風土記」によれば,この太田城は天正4年に太田源三大夫の築城したもので,近世の村はこの城地に当たるという。秀吉は四方に堤を築いて水攻めにしたので,4月22日に太田城はついに開城し一揆は降伏した(宇野主水日記/石山本願寺日記下)。天正13年と推定される4月26日付の次右衛門尉宗俊書状(中家文書/大阪の歴史6)によると,53人の首がはねられ,その女房23人がはりつけにされ,城にも放火されたという。現在も小字名として城跡が残り,来迎寺境内付近が本丸跡という。水攻めの堤防跡が出水にあり,第2次大戦前までには,黒田・吉田・秋月にも残っていた(紀州今昔)。また,和歌山市橋向丁大立寺の門が太田城大門と伝えられ,市文化財になっている。同年と推定される4月22日付の蜂須賀正勝前野長泰連署起請文(太田家文書/県史中世2)は太田城開城に際しての籠城者の助命等に関するもので,「大田郷惣中」と二郎左衛門尉宛に出されている。前記永仁3年の大田郷検田取帳并検畠取帳によると,当郷には大田堂・本免堂・地蔵堂があった。また寛永19年4月日付の日前国懸宮領寺社等書上(日前宮古文書/国立史料館蔵)には,紀三所社・天神社・挑仙庵・新福寺・永安寺を記す。他に,「官幣大社日前神宮国懸神宮本紀大略」では,東祥寺・成福寺・長福寺・毘沙門堂・大田新堂が見える。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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