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紀伊国


天正13年紀州攻めの後,秀吉は弟秀長に当国を与え,支配の拠点として紀伊湊を望む岡山を城地に選定した。秀長は大和郡山におり,和歌山城には桑山重晴が城代として入り,城郭普請と城下経営にあたった。豊臣政権はその版図にいわゆる太閤検地を施行していったが,当国でも,秀長は同13年閏8月9日付の書状(神前家文書/和歌山市史4)で小堀新介に検地を命じている。しかし,のちの高野山領を除く紀北は諸史料から同17年に検地が始められたと思われ,また高野山領となった地域には同19年の検地帳が,紀南の日高郡江川村には同15年の,熊野北山地域には同18年の,検地帳が現存する。慶長3年検地目録による石高は24万3,550石(大日本租税志)。なお秀吉に本領安堵された新宮の堀内氏は,この以前,天正10年に伊勢長島城を攻めて荷坂峠以南を領土とし,もと志摩国の一部を当国牟婁郡に組み込む基を醸成,文禄3年の伊勢国検地によって錦浦(三重県紀勢町)以南が紀伊国と,その南境が確定された。慶長5年関ケ原の戦功により浅野幸長が当国を与えられて入部した。しかし,すでに豊臣秀吉は高野山に改めて2万1,000石の寺領を与えており,徳川家康も同高を承認していた。天正19年10月21日付の豊臣秀吉朱印寺領方目録(蓮上院文書/高野山文書3)および同20年8月4日付の豊臣秀吉朱印状(高野山文書/大日古1‐2)によれば,伊都・那賀両郡内でほぼ紀ノ川以南に同領が割かれており,のち徳川家光が慶安3年伊都郡内で300石を加増し計2万1,300石となった。寛文5年の朱印留によれば,行人領にあたる金剛峯寺領1万1,600石,学侶領にあたる高野山衆徒・青厳寺領9,500石,聖領にあたる高野山大徳院内東照宮・台徳院仏殿領200石とある。高野山領を除く紀伊を領した浅野氏は入部するや,旧勢力の解体をはかるため,土豪層が根強く存在する牟婁郡の田辺に浅野左衛門佐を,新宮に浅野右近大夫を配置,翌慶長6年領内へ総検地を実施した。慶長検地帳は,幸長の父長政が甲斐でいわゆる太閤検地を実施した際の検地条目を手引に,天正検地帳など先帳を下敷にして作成されたが(和歌山市史6),このうち牟婁郡域などでは検地条目に従い検地奉行人でなく在地の庄屋が実施したところもあった(南牟婁郡誌)。徳川氏入国後,元禄10・11年に検地が実施されたが,元禄検地の実態は土地を丈量せずに検地帳と引き合わせる地詰であって,慶長検地以降領内総検地は行われなかった(和歌山市史6)。慶長検地の結果を集約した慶長検地高目録によれば,小物成高も含め石高37万6,562石余。以降,高野山領も含めた石高は,「元禄郷帳」39万8,395石余,「天保郷帳」44万858石余。「旧高旧領」では,三重県に属した北牟婁・南牟婁両郡域を含めて44万4,047石余。浅野氏の治世は幸長・長晟2代19年間にすぎないが,この時期は,検地に伴う中世の度量衡を否定した年貢納升の制定,家改めなどによる夫役負担者の把握,領内海浜諸村のうち水主役負担村の把握など,和歌山城下の整備ともあいまって,近世的支配体制の確立期にあたる。このような浅野氏の政策基調に不安と不満をもった旧土豪層は,慶長19年大坂の陣への浅野氏参陣をついて,熊野北山郷を中心に一揆を起こしたが,もはや勢力の結集をもはかれず,鎮圧された。元和5年浅野氏は安芸へ加転され,代わって徳川頼宣が当国ほか55万5,000石の領主として入国し,以降御三家の1つとして幕政上特異な地位を占めた。徳川氏は将軍秀忠から銀2,000貫をもらい,城郭全般にわたる改修を施し,同時に城下町の拡充につとめた。また,浅野氏の政策を踏襲,両付家老のうち田辺に安藤氏を,新宮に水野氏を配置,伊勢田丸への家老久野氏の配置とともに,紀伊半島を分割的に支配して統治を徹底させようとした。なお田辺安藤氏領・新宮水野氏領は幕府から各御三家に付けられたという両氏の性格にも規定され,藩内藩的存在であった。さらに対旧土豪策として,六十人地士,隅田組地士,根来衆子孫からなる根来同心,旧隅田党の隅田組,山方警備などの山家同心などに彼らを編成するなどした。地方の支配は,各郡に郡奉行・代官を置き,諸村をいくつかの組に編成して行政区画として機能させ,各組に大庄屋・杖突などを置いたが,その組織化は寛永年間という。また寛永15年には,那賀郡のうち紀ノ川上流の上那賀一帯を伊都郡代官の,名草郡のうち紀ノ川右岸および和田川左岸辺りの西名草一帯を海部郡代官の,海部郡のうち日高郡境辺りの南海部一帯を日高郡代官の管轄に移し,藩制上の郡域を調整した。また日高郡と牟婁郡西部を中心とした田辺領と,牟婁郡東部を中心とした新宮領も組編成をとり,両領にとり二分された形となる牟婁郡のいわゆる本藩領は,元禄年間以降,和歌山に近い方を口熊野,遠い方を奥熊野と称するようになっていった。これにより各郡代官の管轄地の高はほぼ均等化され,享保13年の御領分諸色数並土地之事(一色家文書/県史近世3)によれば,那賀郡6組合は135か村・5万4,966石余,伊都郡5組合は126か村・4万1,040石余,名草郡4組合は86か村・4万9,541石余,海部郡6組合は118か村・5万1,228石余,有田郡5組合は137か村・4万2,935石余,日高郡7組合は126か村・3万9,320石余,また口熊野5組合は155か村・1万8,932石余,奥熊野7組合は99か村・1万6,285石余とある。一方高野山領では,学侶領は年預代の下に各寺院領に分けて寺庄屋を置き,行人領は興山寺の下に大庄屋が置かれて数村からなる組をつくり,興山寺による統一的支配がなされた。これら支配体制の下,水主役を負担する浦方が決められ,海防のための浦組に編成されていた当国海岸部は,豊かな漁場に恵まれ,早くから漁業が盛んで,半島南部では潮岬会合という共同体的組織が浦方漁民により形成されるなどし,また地先漁業のみならず江戸初期から北部加太浦をはじめとして関東の漁場などへも出漁していた。さらに熊野灘辺りでは捕鯨業が太地【たいじ】浦から発展,各地にその技術が伝播するとともに,藩も古座【こざ】浦に鯨方役所を置いて捕鯨業に乗り出した。日高郡海辺では,漁業のほか廻船業を展開,はじめ日高組,のち日井組が分かれて2組合となり,宝暦年間にはともに樽廻船の主力として活躍した。和歌川下流域からその海浜部では製塩業が盛んで,この塩は和歌山城下から雑貨も積んだ三葛村船により紀ノ川水運の拠点橋本町に運ばれた。同町は塩市を立て,同町塩商人は国内産塩売買に特権を有した。また同町には船改番所が置かれ,大和国への物資は同町で陸揚げされ,陸路で大和へ送られた。同町のほか,門前町の系譜を引く粉河町など各街道の結節点が,各地の行商活動の活性化にも支えられ,商業活動の中心地として成長していった。また同時に,新宮水野氏の財源を支えた熊野の森林資源,大坂市場を目あてに増産をたどった日高綛糸のほか,高野紙・粉河酢・黒江椀・備長炭など全国に知られる特産品も生み出され,特に有田川下流域では17世紀後半ごろから江戸市場と結びついて蜜柑の特産地を形成し,藩は蜜柑方役所を置いて支配した。また同地域では醤油醸造も展開,富有な商人層を輩出した。さらに伊万里焼を江戸市場へ販売,18世紀前半に江戸陶器業者と抗争を起こした宮崎陶器商人などもいた。これらの動向を背景に,藩は,当初貧民救済を目的として各地に設置した御仕入方役所の性格を変え,文化・文政年間ごろから同役所を通じての専売制を志向していった。すでに生産性の高い地域では早くから農民層の分解が見られたが,次第に,土地の一方的集中と喪失,商品経済の浸透による富商・豪農層と小前・日用層の対立が激化し,村方出入りなどが天明年間から文化・文政年間にかけて頻発していった。文政6年大旱魃による水争いに端を発した一揆は,紀ノ川流域各地に飛び火,こぶち騒動とも称される激しい打毀を伴った大一揆へと展開していった。御仕入方役所をはじめ富商・豪農宅を打ちこわした各一揆勢は合流して和歌山城下へ押し出したため,藩は城下外縁に厳重な防衛線を敷き,交渉にこぎつけた。幕末に入り海防のため浦組が動員されるなどする中で,文久3年大和五條で天誅組が挙兵,伊都郡の村に夜襲をかけるなどしたため藩兵を派遣,郡内諸村には非常入用が徴収され,また翌元治元年から慶応元年に,藩主から将軍職に就いた家茂は長州征伐を行い,藩も参陣したため,在夫などを徴発されるなど,幕末の政争に揺り動かされ,明治維新をむかえた。明治元年新宮藩・田辺藩が立藩。翌2年には高野山領が堺県に属し,翌3年五条県に属した。同4年廃藩置県により,7月和歌山県が成立,11月新宮県・田辺県および五条県に属していた旧高野山領を編入,同時に県境変更により牟婁郡の一部が度会県(のち三重県)となった。なお明治10年に板行された「日本地誌略物産弁」巻4には「紀伊国物産」として,銀・銅・石材・木材・蜜柑・樟脳・煙草・木綿・紙・炭・蝋燭・紋羽織・傘・団扇・氷豆腐・漆器・鯨・鰹について記し,さらに付録として,石炭・甘蔗・和歌海苔・牡蠣・和布・海驢・玉井醤・魚油・陶器・酢を挙げている(日本産物誌)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7404099