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紀伊湊(古代~中世)


奈良期~戦国期に見える湊名名草【なぐさ】郡あるいは海部【あま】郡のうち紀ノ川の流路が時代によって変わっているため,当湊の位置も変動したと考えられるが,当地周辺では単に水門・湊といい,他国から見た場合には,紀伊湊・紀伊水門・紀水門・木水門と書かれている古くは「古事記」神武天皇条に「紀国の男之水門」と見え,大和進出をはかった神武天皇の東征軍がやむなく迂回して当地に至っている(古典大系)「日本書紀」神功皇后摂政元年条によれば,忍熊王たちの反逆を聞いた神功皇后は,「武内宿禰に命じて,皇子を懐きて,横に南海より出でて,紀伊水門に泊らしむ」といい,皇后の船は当地から難波に向かった(同前)なお天平3年7月5日の住吉大社司解(住吉神社所蔵/平遺補1)にも同様の記事が見えるが,「木水門」と書かれている以上の史料は史実とはいえないが,5世紀後半以降,当地は大和政権の朝鮮出兵のための軍事基地の働きをし,当地から多数の豪族や兵士たちが朝鮮半島に渡ったものと推定される同時に,紀伊の水軍の根拠地でもあり,紀ノ川から海へとつながる河川交通と海上交通の接点として,国内統一に果たした役割は多大で,大陸文化との関係も深かった平安期においても国衙が管掌する要津であることに変わりなく,「平家物語」横笛には「和歌・吹上・衣通姫の神とあらはれ給へる玉津島の明神,日前・国懸の御前をすぎて,紀伊の湊にこそつき給へ」と見え(古典大系),小松の三位中将維盛が屋島をぬけ出して紀伊湊に上陸しているなお当時の紀ノ川河口の湊としては,紀伊湊のほかに永承3年の紀伊国名草郡郡許院収納米帳並進未勘文(九条家本延喜式裏文書/和歌山市史4)に「吉田津」「平井津」が見えるその他,「宇治関白高野山御参詣記」永承3年10月18日条にも「巳刻之終着御湊口」と見え(続々群5),藤原頼通は高野山参詣の帰途,紀ノ川を下って紀伊湊に着いている中世においては海部郡雑賀【さいか】荘のうちに属したともいわれ,建久7年3月日付の高野山住僧等解(高野山文書/大日古1-1)によれば,高野山に納められる遠隔地荘園からの年貢米などは紀伊湊に運び込まれ,そこで積み替えられて紀ノ川を上り高野山に運ばれることになっていたが,当湊で雑賀荘住人源太丸と高野山領大田荘梶取丸が相論をし高野山鎮守丹生明神の神人を刃傷する事件が起こったそのため高野山側は源太丸の荘内追却や湊に運ばれる運上米に狼藉をしないよう領家側に要求し,平親宗はその要求を全面的にいれてその旨を荘官等に外題として記し命じた端裏書にはこの争いを「地頭狼藉」と記してあり,また「高野春秋」建久8年2月7日条から相論は津留料をめぐって起きたことがうかがわれ,雑賀荘の地頭が荘内の当湊で津留料等を徴収していたとみられる近世の貞享2年書写の法灯国師縁起(興国寺文書/県史中世2)によれば,日高郡由良の臨済宗興国寺の開山となった心地覚心(法灯国師)は建長6年宋から帰国した時に,九州の葦屋津から日本の船に乗って「紀之湊」に着き,そこから高野山に登ったというまた「明徳記」によれば,明徳3年大内義弘は山名義理を討つために和泉国に行き,そこから船で紀州に渡り「和歌・吹上・玉津島・紀ノ湊」から攻め入って勝負を決しようとしたという(群書20)戦国期には雑賀一揆に加わり,その組織である雑賀五組の1つ雑賀(荘)に属し,永禄5年7月吉日付湯河直春起請文(東京湯河家文書/県史中世2)には「湊 森五郎殿,同 藤内大夫殿」が見えるまた同時期と推定される9月29日付藤内大夫等連署起請文(同前)にも雑賀一揆の構成員が連署を加えており,「湊領家分 藤内大夫」の他に森五郎も署判を加えている「兼見卿記」元亀3年2月29日条には「紀州海(部脱)郡雑賀庄自湊村」兼見に祈念鎮札を求め,銀子1枚が渡されたことが見える(纂集)天正6年ごろと推定される9月26日付下間頼廉書状(本願寺鷺森別院文書/県史中世2)では,「湊惣中,雑賀惣中」その他に対し織田信長の出陣を報じて石山本願寺へ急ぎ援軍を送るよう要請しているその後顕如が鷺森に滞在中の天正10年,雑賀一揆の内部対立が激化し,織田信長と結ぶ鈴木孫一は同年正月23日に土橋若太夫を討ち,土橋氏を雑賀から追放したが,しかしその後も対立は続いていたようで,2月13日織田信長と鈴木の軍勢2,000ばかりが「湊面」へ出兵している(宇野主水日記/石山本願寺日記下)天正10年9月「紀州湊雑賀衆」は三好合戦で長宗我部元親を救援のため阿波に渡海している(元親一代記/大日料11‐2)同年と推定される10月14日付香宗我部親泰書状(森関右衛門所蔵文書/和歌山市史4)では,「紀湊両所惣中」宛に次の軍事行動の際にも援軍を派遣してくれるよう要請しているこのころ当湊の惣中が2つに分かれており,その両者が長宗我部氏と結んでいたことがわかる「上井覚兼日記」天正12年3月25日条によれば,島津義久は「和泉之境,紀之湊之船頭」に軍勢の有馬への輸送を要請しており,同書天正13年12月12日条によれば当湊の者が船大工として薩摩で造船に従事したことがわかる(大日本古記録)また天正14年3月23日,相模の北条氏は「紀州紀之湊佐佐木刑部助船」が商売のため北条領国に来ることを許可している(有田郡広村梶原家所蔵文書/続風土記)当湊の船や船大工が九州や関東に赴いて活躍していることがわかる天正13年3月豊臣秀吉は紀州に出兵した「宇野主水日記」同年3月24日条には,雑賀御坊よりの注進として「湊・中島一円に放火」と見え,秀吉の軍勢乱入以前に一揆内部の対立から当地が放火され焼失したもので,すでに22日には秀吉方に内通した者が「岡ヨリ湊ヘ取懸テ,鉄炮ヲイカケ」ており,そのため土橋平丞や「湊衆」は船で土佐に逃れたという(石山本願寺日記下)3月25日秀吉は小早川隆景に書状を送り,すでに根来【ねごろ】・雑賀を平定したこと,「紀湊ニ拵城」,国の支配を申し付けるためしばらく逗留すること等を報じている(小早川家文書/大日古11‐1)また秀吉は太田城に立てこもって抵抗する一揆勢を攻略するため堤を築いて水攻めにする策をとり,各地から船で紀湊に兵粮を運び込み,築堤に従事する軍兵に渡したという(紀州御発向之事/続群20下)ついで四国に軍勢を派遣した秀吉は7月29日,阿波の一宮・脇両城を包囲している軍に「さいか紀湊之米」を渡すよう宮本豊盛に命じている(波多野幸彦氏所蔵文書/大日料11‐17)慶長4年5月9日付の廊之坊諸国旦那帳(潮崎稜威主文書/熊野那智5)に「紀の湊」が見える同年11月23日付桑山重晴畠地寄進状(水門吹上両神社文書/和歌山市史4)によれば,湊明神の社が建立されたのを祝して「湊 神主」宛に桑山重晴から畠3反が寄進されている戦国期以降には湊村が見え,和歌山城下大名【おおな】八所の1つに湊がある現在の和歌山市の紀ノ川河口付近に比定される




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7404101