高野山寺領(古代~中世)

弘仁7年,空海の開山によって寺院としての高野山の歴史が始まるが,その運営の基盤となる寺領は順調に形成されたわけではなかった当初認められたのは,修行の場たる「修禅一院」に必要な高野山の寺地とその近辺の土地の用益権にすぎず,承和2年に定額寺としての寺格を得た後も,その経済的基盤は極めて弱体であった貞観18年7月22日に,紀伊国伊都【いと】・那賀・名草【なぐさ】・牟婁【むろ】の4郡に散在する水陸田38町が不輸租田とされ,高野山の寺田として認められているのが(三代実録),史料に見える寺領の最初であるしかし本格的な高野山領荘園としては,永承4年12月28日の太政官符により伊都・那賀・名草・牟婁の各郡に散在する寺田を返納するかわりに「寺家政所前田并荒野」を新たに不輸租田として認められた官省符荘の成立をまたねばならない太政官符と民部省符によって認可されたという意味から官省符荘と呼ばれるが,高野山領荘園として最も古い時期に成立し,また「山内并政所領里」の拡大した形態とみなされたことから,当荘を「高野政所荘」「高野本荘」「金剛峯寺御荘」と称する例が早い時期には見え,官省符荘という呼称の定着は鎌倉中期以降である官省符荘は,永承4年の段階に成立した河南と上方,康平年中に成立する下方,およびのちに上方に組み込まれる山田・村主【すぐり】の地域からなる複合体であり,それぞれ成立事情は異なるが,12世紀前半には原形がほぼ完成され,高野山領荘園中最大の面積を占めるものとなったなお官省符荘成立以前,11世紀初頭の寛弘元年9月25日付太政官符案では,高野山が紀ノ川以南の広大な地域の領有権を主張して平維仲と争っており,その係争地として「押戸・立神・椙原・板廬・花薗・志賀・長谷・毛無原・古佐布」の地名が記されているが(前田家本高野寺縁起所収/平遺436),花園荘や六箇七郷が高野山の安定した所領となるのは,12世紀半ば以後であるこの時期以後,中世を通じて高野山は寺領拡大のため「御手印縁起」を根拠に,広大な地域の領有権を主張していくのである平安末期には院や貴族の高野参詣が盛んとなり,それとともに寺領の寄進も行われるようになる寛治5年には白河上皇から安芸国能美荘が寄進され(白河上皇高野御幸記/続大成),長承元年には鳥羽上皇が覚鑁の大伝法院・密厳院の所領として伊都郡の相賀荘,那賀郡の石手荘・弘田荘・山崎荘,名草郡の山東荘・岡田荘を保証した(鳥羽上皇院宣案/根来要書上)ただし,これら紀伊国北部の諸荘は,覚鑁が建立した子院と金剛峯寺の本末をめぐる対立から根来【ねごろ】に退去し,鎌倉期の正応元年に大伝法院・密厳院も高野山から根来に移るに及んで,名実ともに根来寺領となる那賀郡荒川荘は,平治元年7月17日の美福門院令旨により,鳥羽法皇の菩提を弔うため高野山の一切経会などの料所として寄進され(高野山文書/大日古1‐1),また日高郡南部【みなべ】荘は,承安5年には五辻宮頌子内親王が父鳥羽法皇の菩提を弔うため高野山に蓮華乗院を建立し,その仏餉灯油人供料所として荘内の山内村水田10町が寄進されたことにはじまり(同前),鎌倉期にはその支配権を高野山が握った文治2年5月日の後白河院々庁下文によれば,備後国大田荘が根本大塔領として寄進されており(同前),那賀郡麻生津【おうづ】荘は,承久3年9月12日の六波羅御教書案に高野山領「名手庄 大津村」として姿を現す(興山寺文書/那賀町史)また那賀郡の神野真国【こうのまくに】荘は承久3年10月24日の後高倉院々宣により,高野山がその領家職を握っており(高野山文書/大日古1‐1),貞応3年ごろと推定される覚観書状で桛田【かせだ】荘と境相論をおこしている静川荘についても,高野山が領家職をもっていた(神護寺文書/那賀町史)このように鎌倉期,特に承久の乱以後紀伊国における高野山領の進展が顕著で,高野山は寺領拡張のための訴訟に,しばしば空海が丹生都比売神から広大な土地を譲られたという伝説を基軸とする「御手印縁起」を持ち出す「続風土記」高野山之部寺領沿革通紀に略記された弘安8年9月日の金剛峯寺寺領注文写でも,空海が朝廷から領有を認められた「弘仁官符四至之内庄領」を旧領であるとしており,蕗荘・筒香荘・摩尼郷・北俣郷・丹生川【にうかわ】郷・三尾郷の6箇郷を寺家知行分,神野荘・真国荘・猿川荘・荒川荘・毛原郷・志賀郷・長谷郷・山東荘の8か所および麻生津荘・渋田荘・政所河南・三谷郷・教良寺村・平野田郷・山崎郷・天野郷・細川郷・古佐布【こさわ】郷・加禰郷・椎手郷の12か所を当山知行分として載せるとともに,「中津川郷〈吉野執行〉野川郷〈同〉隅田南荘〈八幡宮〉」を他家知行分,「小川柴目両村〈玄親律師〉貴志庄東方調月庄〈唐橋法印〉鞆淵庄 荒見庄〈聖護院〉」の5か所を他人押領分として,あくまでも紀ノ川以南の広大な地域を「御手印縁起」の内にあり本来は高野山の領有に帰すべきものとの姿勢を貫いているしかし現実には,知行分とされる30か所の内でも,同じ真言系の仁和寺などの支配する所領が多く含まれていた元弘3年10月8日の後醍醐天皇綸旨(束草集/校刊美術史料)により,高野山は「御手印縁起四至内地」の一円支配権を認められ,従来の仁和寺など真言諸大寺による関与を排除し,広大な所領の支配権を掌握するに至るこれは,いわゆる元弘の勅裁といわれるもので,伊都郡紀ノ川以南の隅田南【すだみなみ】荘・相賀南荘・渋田荘,那賀郡の鞆淵荘・調月【つかつき】荘・小河柴目荘などがこの時期新たに高野山領となったしかし,鎌倉末期~南北朝期には在地で悪党の行動が顕著となり,また百姓等も惣結合を強め,荘官層との対立から武力衝突を引きおこすなど新たな問題をはらむようになり,高野山の寺領支配は容易ではなかった寺領支配再建のために高野山では,応永~永享年間ころに再三にわたって大検注を実施しており,官省符荘をはじめ相賀南荘・荒川荘・調月荘・鞆淵荘・名手荘など,最重要とみなされていた膝下荘園で大検注がなされた明徳3年10月日の高野山金剛峯寺寺領注文写(高野山興山寺文書/和歌山市史4)や応永7年正月18日の高野山金剛峯寺々領注文(勧学院文書/高野山文書1)によれば,紀伊国内では隅田南荘・相賀南荘・官省符(河南・河北・同四郷)・名手荘・渋田荘・静川荘・麻生津荘・荒川荘・調月荘・東貴志荘・三ケ荘(神野・真国・猿河)・野上荘・薬勝寺・南部荘(半分)・小河柴目荘・阿氐河荘(上下)・六ケ郷・鞆淵荘・細野荘・花薗荘(上下)・湯河郷・山郷内(諸堂炭香料)・山東荘福増名(持明院領)・大野郷・多田郷(東塔米)・浜中南荘が当知行分とあり,不知行分としては,石垣荘・井上本荘(西塔領)并下司職(丹生社領)・井上新荘・志野下司職(東南院護摩料)・直川【のうがわ】郷(奥院領)・荒見村・由良荘公文職(花王院領)・水(杉)原荘・野上荘識事名(修禅院領)・河別当職(蓮上院領)があげられているまた紀伊国以外では,和泉国近木荘・山城国河島・備後国大田荘などは当知行と見えるが,その他は不知行と記されるものが多く,このころには遠隔地荘園の多くは退転していたものと思われるまた当知行とある備後国大田荘の場合でも,守護山名氏による請負いが成されたが応永9年から永享11年に至る37年間に年貢未進が2万6,000石余に及んでおり,応仁の乱後には完全に山名氏の所領化していったそうしたなかで高野山は膝下荘園の掌握に努め,前述したように大検注を実施し院坊・諸衆の分田支配を行ったのである応永30年2月には,四郷・渋田荘・小河内・炭荘・四村・志賀郷・三谷郷・古佐布郷・長谷郷・官省符上方・同下方など広汎な地域の百姓等が「公方役書上」を出しているが(高野山文書/大日古1-8),これは守護畠山氏から課せられる夫役を列記したもので,寺領の百姓等が守護方の夫役賦課により高野山への年貢夫役を対捍しがちになるのを抑えるため,高野山が作成させたものとみられている室町期には,年貢未進や逃散・荘官排斥など,惣結合を軸にした百姓等の抵抗が膝下荘園でおこっている紆余曲折を経ながらも,これらの寺領は天正13年の豊臣秀吉による紀州攻めの段階まで維持される高野山はこの時秀吉に降伏し,その寺領はいったん没収されるのち天正19年から同20年に,秀吉の朱印をもって2万石余の寺領が与えられた

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7404479 |