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御坊村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。日高郡のうち。和歌山藩領御免所。中村善次兵衛組のち天田組に所属。村高は,慶長検地高目録で70石余,「天保郷帳」「旧高旧領」とも78石余。もと薗浦・島村の荒地(続風土記),浄土真宗の道場建立以降,寺内は諸役御免の地であったため次第に人家が集まり,町場を形成していった。江戸初期から御坊町との私称がよく記され,延宝6年の大差出帳(日高鑑)にも「御坊町」と見える。同帳によれば,高78石余・反別6町9反余,家数131軒・人数538,牛9・馬2,船数7うち廻船1・いさば船6,帆別米7斗,床銀14匁,木挽役銀17匁余,医者3,御蔵1。「続風土記」では家数237軒・人数870,村内の東西2筋に横町・南横町,南北3筋に東町・中町・西町,西端に古寺内があった。多くの商職人が集住,日高地方随一の商工業地へと発展。宝暦年間ごろから発展した蝋・蝋燭,寛政年間以降の砂糖などの当地特産物に携わる問屋・職人を数多く輩出。ほかに,酒・醤油・酢・薬・古手など日常需要の種々の品物を取り扱う商職人が居住した。17世紀前半の菱垣廻船結成以後,この主要メンバーに成長した日高廻船業の中心地の1つとしても活動。寛文7年17艘の廻船を保有(名屋浦鑑/日高史料)。江戸初期には250石積みほどの小廻船が中心となった。次第に1,000石積みの大型船が大坂~江戸間幹線航路に就航。最盛期の安永8年には,当村より9艘の大廻船が日高廻船(55艘中)に参加(御坊市史1)。元文年間までには日高大廻船組が結成され,薗浦とともに当村の廻船業者も年行司に就任した。文政年間以降,灘地方酒造業者の自己運送化,難船の多発などにより,稼動廻船数は減少,当地の廻船業は急速に衰退した。廻船は,江戸へ酒・米を中心に有田蜜柑などを輸送し,帰途には干鰯などを運送した。寺院は浄土真宗西本願寺御坊。明治4年和歌山県に所属。同6年藤園小学校開設。同年には戸数249,男515・女489。同13年の御坊村誌によれば(御坊市史2),田畑4町余・宅地7町余・人数1,132,醸造業・蝋燭・綛糸・晒葛などの加工業を中心とした商工業が盛んであった。綛糸・蝋燭芯などの製造は農家副業として営まれた。さらに周辺各村在住の職人を通勤させるなど,当村商工業の繁栄がうかがえる。明治12年,郵便局が小松原から当村に移転,日高地方通信網の結び目となった。同22年御坊村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7404568