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薗浦(近世)


 江戸期~明治22年の村名。日高郡のうち。江戸初期には薗村と見える。和歌山藩領御蔵所。中村善次兵衛組のち天田組に所属。村高は,慶長検地高目録で695石余,「天保郷帳」「旧高旧領」とも791石余。早くから当地は日高地方の中心地で,江戸期から日高郡役所(代官所)や銀納分貢租徴収機関の御納銀封所が設置されて藩の役所街を形成。寛永8年には藩主別邸の薗御殿も建設された。また商工業の中心地としても発展したが,ことに日高地方廻船業の本拠地として繁栄。なお寛文年間に薗・名屋・田井各村の入会地が濱ノ瀬村となった。延宝6年の大差出帳(日高鑑)によれば,村高777石余・反別58町3反余,ほかに新田が高2石余・反別5反余,御殿はすでにこわされておりその跡地が高8石余,家数275軒うち舟方63軒,人数1,052,牛58・馬11,船数45うち廻船32・いさば船3・地引網船8・まかせ網船2,網数5うち地引網4・まかせ網1,水主米50石,新町の船5艘分帆別米2石余,床銀90匁,木挽役銀25匁,鉄砲4,御殿の籾蔵を拝借した御蔵1。なお当浦は,慶長16年8月16日の加子米究帳(栗本家文書)では「その・よし原」と吉原浦とともに記され,その水主役数50(先高40),代納升高60石。また御領分加子米高帳(田中家文書)による江戸初期の水主米高50石。「続風土記」では家数271軒・人数1,077,商人が多く,南北の通りに新薗・芝,東西の通りに新町・茶面・土手と町を形成と見える。なお先の御殿建設により新町の諸役が免除されたと同書にある。日高廻船は,17世紀前半の菱垣廻船結成により大坂~江戸間の輸送幹線が成立するや,その有力メンバーとして活躍。当浦所有船数は寛文7年29艘,元禄6年44艘(名屋浦鑑/日高史料)と大勢力を誇った。初期には250石積みほどの小廻船が中心,次第に1,000石積みと大型船化し,元文年間までには日高大廻船組が結成され,当村の廻船業者がその年行司を長年勤めた。寛政年間以降組の稼動廻船数は減少し,天保年間には樽廻船に移籍。当浦では廻船業者数の急減期にも所有廻船数の多い大業者が存続,日高廻船業をリード。しかし嘉永年間にはほとんどその姿を消した。長年大廻船組年行司を勤めた日高地方随一の当浦廻船業者は,江戸末期には土地集積を進めると同時に蝋商に経営重点を置いた。なお廻船の荷は,前期には諸荷物を積載,後期は江戸へ酒・米を中心に有田蜜柑などを輸送,帰途には干鰯などを運送。神社は延宝6年薗御殿跡地に遷宮された八幡宮,寺院は浄土真宗本願寺派浄国寺・天性寺。明治4年和歌山県に所属。同6年には戸数306,男718・女686。明治13年の薗浦誌によると(御坊市史2),田畑77町余,戸数309・人数1,416,米・麦・綿花作中心の農業地帯となっている。なお明治2年の薗浦大差出并社寺調とも控によれば(同前),濱ノ瀬(美浜町)に船籍を移して廻船・漁船それぞれ20艘余を薗浦在住者が所有,規模を縮小しながらも依然廻船業・漁業に携わってはいた。また,江戸後期には商工業中心地が御坊【ごぼう】村へ移動したことを反映して,御坊村などへ出かけたと見える雑工人数が多かった。明治22年御坊村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7405133