100辞書・辞典一括検索

JLogos

27

田尻郷(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える郷名。名草郡のうち。日前・国懸宮領神宮郷。当郷の成立については明らかではないが,天養2年3月28日の大伝法院陳状案によれば,保延6年2月18日,日前・国懸宮は,散在している神領を放棄することによって,「社辺巨多之公地」を一円神領化しており(根来要書下/和歌山市史4),このとき同宮領に組み込まれ,その後日前・国懸宮領の神宮郷として成立したものと思われる。田尻郷の初見は,建長2年11月2日および11月日付の神宮郷荷前田・新荷前田・弥荷前田の員数を記した注進状(日前宮古文書/国立史料館蔵)で,当郷に荷前田が8反,新荷前田が8反,弥荷前田が5反見える。永仁3年3月には,日前・国懸宮は,所領神宮郷に対して一斉に検注を行い,同年の田尻郷検田取帳(官幣大社日前神宮国懸神宮本紀大略)には「手淵 一段 覚皇寺時免」「山本 二段 出半 田尻堂免〈預所殿 刀禰沙汰〉」などが見える。また,同年の諸郷奉分田所当注文(日前宮古文書/国立史料館蔵)によると,百姓名として,恒行名・正恒名・貞光名・近恒名・末弘名・恒弘名の6名があり,他に福重別納分・塩地分,預所名2町1反300歩,刀禰公事料5反240歩があった。それらのうち定田合計は17町4反140歩,その分米40石7斗2升3合,そこから除米18石6斗5升を差し引いて定米22石7升3合となっている。除米として,本荷前・新荷前・弥荷前・臨時御祭饗料・同御祭召布代・京上夫粮料がみえる。なお,観応2年8月付の田尻郷刀禰得分注文(日前宮古文書)では,刀禰の得分として,公事料5反240歩,畠分8反,新田1町60歩,新畠4反120歩,中島畠240歩を記している。当郷にも,他の神宮郷と同様,給免田・供田・寺社田などもあったものと思われ,至徳3年の金剛山報恩禅寺内検帳(同前/国立史料館蔵)によれば,同寺は当郷に塩地1町2反,福重名塩地4反310歩,福重名2反120歩,その他地字名「坂田ノ橋ノツメ」「牛淵」等に6反を持っている。さらに建武元年5月16日付の紀俊文田地寄進状(同前/続風土記)では「田尻郷御厩藤次郎本給内」1反が,同3年12月8日付の紀俊文田地寄進状(同前)では,「田尻郷内字西野」の田地が,惣福寺の灯油料田として寄進されている。当郷は,百姓名の割合が大きく,日前・国懸宮の重要な所領となっていたと思われる。また,日前・国懸宮の神宮郷として,神事・祭事にかかわっており,特に,当郷をはじめ,和太・神前【こうざき】・忌部【いんべ】・内原の5か郷は,百姓名を多く有しているためか,役負担などがよくみられる。応永6年11月1日写の奥書がある日前宮年中神事記(日前宮古文書/東大史料影写本)によれば,同宮の祭礼で仮屋造立,喰膳などの奉仕をしている。天文5年閏10月11日付の日前宮神事用途分配注文(同前/和歌山市史4)では,当郷は,神事の「サモコノ布ノ銭」2貫文,「春ナシ」900文を出している。また,天文21年正月からの年中万日記(同前/国立史料館蔵)でも,先の神前郷等とともに,早米などの納物がみえる。さらに,天文10年正月21日付の日前宮井祭頭役次第(同前/和歌山市史4)では,12番中3番目に井祭の頭役をつとめている。天正年間ごろとみられる年月日未詳の流鏑馬射手注文并年貢日記(同前)には当郷の人とみられる岩波が射手として見え,年貢収納に関して「田尻・坂田はしノ北三丁かけ」に減免措置がとられている。なお文明18年3月に,蓮如が紀州に旅した時,岩橋を出て鳴神山を見,「田ジリノ浜」を通り,三葛峠に登ってふもとを眺めたという(蓮如上人紀伊国紀行/和歌山市史4)。当郷には,寛永19年4月日付の日前国懸宮領寺社等書上(日前宮古文書/国立史料館蔵)によると,中言大明神・八幡宮・天神社・岩御前社・里神社・大日堂・田徳寺などの寺社があった。また,「官幣大社日前神宮国懸神宮本紀大略」には,その他に田尻堂を記す。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7405263