田辺(近世)

江戸期の城下町名。牟婁郡のうち。はじめ浅野氏の重臣浅野氏重,元和5年から紀伊徳川氏付家老安藤氏の城下町となる。慶長11年浅野氏重が湊村内会津川河口左岸の一角を新城地に選定し普請を開始,同時に城下の町割を行った。なお氏重の時期に城郭は一応の体裁を整えたと思われるが,元和5年城請取に際し安藤氏は城がないため城下の旧家に宿をとっており(田辺町大帳),西国諸大名を対象とした性格を持つとされる元和元年の一国一城令を遵守して城を破却,安藤氏は浅野氏の縄張りのまま公的には陣屋として工事を再開したと考えられている(田辺市誌)。慶長18年浅野氏は田辺大橋を架けるため橋板費用などを城下にも賦課したが,その時には本町・長町・袋町・舟町・紺屋町および会津川対岸江川浦の名が見える(万代記)。このうち舟町は以降町名が見えず,代わって寛永5年を初見に片町の名が現れる(同前)。江川浦の南端洲崎の地は湊村に築城する前の城地で,同浦も城下各町と同じく城下範疇とされ,田辺町江川と称された。城下建設に際しては,大手門からほぼ伊作田【いさいだ】村稲荷神社旧地の方向へ,南北に直線状の大手筋が引かれ,大手筋西部で屈折させながら東西に熊野街道が城下内に取り入れられた。大手筋にはまず本町(横町筋)が町割りされた。この本町を中心に,西部には外濠から北にむかって片町(下片町),熊野街道沿いの本町,紺屋町と竪町筋が並ぶ。東部は熊野街道沿いに長町が形成され,同町から南方外濠にむかって,袋町,片町(上片町)と,袋町東部の一部横町筋を除いて竪町筋が並ぶ。武家屋敷地は東側の外濠からほぼ長町の東端辺りまでが充てられた。また片町(上片町)と袋町南側は長町・袋町北側より短く町割りされ,弁慶の故事に由来して付けられたという弁慶松通をはさんで武家屋敷地とされた。家中27軒・与力36軒・足軽60人(田辺諸事控)。家中の多くは江戸詰・和歌山詰で田辺には居住していなかった。片町は本町横町筋により町域が二分されるため,西を下片町,東を上片町と通称した。片町は2町に分かれた訳ではないが,長町は寛文5年ごろに上長町・下長町の2町となった。当初の町割では長町筋が城下東端であったが,寛永年間成立と推定される田辺城下図絵(闘雞神社所蔵)には海蔵寺・本正寺以西長町までの熊野街道沿い湊村地内に新町の名が見える。さらに以降も南へ町域が拡大,この伸張部は寛文5年に検地が行われ南新町となり,これに伴い先の新町は北新町と称した(万代記など)。これにより田辺城下は八町と江川浦で構成されることとなった。本町は大庄屋・大年寄がおり会所もあるなど城下の中枢機能をはたし,寛文12年旅商人宿の設置が同町に限り許され,はじめ伝馬所も置かれていた。役馬数は18,のち20となり,西は南部【みなべ】,東は上三栖,南は朝来【あつそ】まで貨客を運んだ。のち伝馬所は下長町に移り,同町には寛文12年旅人宿の設置が許可された。大手筋に続く熊野街道沿いの下長町・上長町は通行量も多く,繁華街を形成した。袋町は当初細工職人が住み細工町の様相を呈していたが,繁栄策として正保2年魚店営業が,次いで貞享元年塩魚座が許可され,魚売商の集住が顕著となっていった。片町には延宝元年塩座が許可されている。下片町の西端には漁師町の網屋町が形成されていた。承応元年に検地が行われ,年貢地となる。その性格上,寛文10年には江川浦と漁業権をめぐって争いを起こし,非常時以外浦役は御免となった(万代記)。紺屋町は町名どおり紺屋の町であったが,次第にその集住性は崩れていった。同町は寛政3年町の衰微は他所での紺屋営業によるとして紺屋営業権の独占を訴願している(同前)。紺屋座は認められなかったが,宝暦11年には鋳物鋳造の釜の座が許可されている。鋳物場のある通りは吹屋町の通称で呼ばれた。また本町横町筋に続き浄行寺に至る通りは道場(土成)町と呼ばれ,年貢地。住民は元禄8年から町役も果たすようになったという。熊野街道は北新町のほぼ中央三栖口角で大辺路【おおへち】と中辺路に分かれ,安政4年再建の石柱道標が現在も残っている。北新町は長町筋に続く繁華街を形成。南新町は湊村地内への城下膨張の典型で,家並みごとに,時期や史料により異なるが,多くの通称町名がついていた。職人層が多く居住し,細工町的色彩が濃い町であった。各町合計の家数・人数は寛文7年271軒・2,516人(同前)。享保10年では江川浦を含めて竈数756軒・人数2,720,商職人は酒屋14・請酒屋2・質屋10・小質屋8・麹屋11・魚売商38・仲買5・諸色仲買4・縑屋3・古手38・紺屋20・匣屋指物屋9・鍛冶7・大工33・船大工1・温飩屋2・籠屋1・傘屋1・桶屋7・畳屋3・塗師屋12・砥屋鞘屋3・石屋1・左官6・白銀屋1・綿打16・小細工2・仕立物2・屋根屋2・大鋸2・旅人宿19・旅商人宿6,またほかに医師13・牢人2,漁師257うち地廻り99・関東上州熊野行143・銚子行15,他所奉公人51・他所稼35・仲使日用153など,寺院数14,借家は232軒であった(田辺諸事控)。本役家数は宝暦4年には262軒余,本町には大庄屋・大年寄3・高札場・古会所など8軒,袋町には会所,南新町には大工頭領の無役家があり,また江川浦は本役家41軒・半役家20軒・無役家117軒(万代記)。元禄年間には栩の曲物・指物・塗師細工が盛んで(紀南郷導記),寛政年間では栩細工が名物であった(熊野詣紀行)。「西国三十三所名所図会」には田辺について「若山への往還なれば遍歴の道者旅商人武家方出家諸職人通行しばしも間断なく……市街には工家商家軒をつらね交易に暇なく,繁花豊饒の一都会なり,されば旅駕屋なんぞも何れも賤からず」と見える。海岸に位置するため災害には多くあい,宝永4年の地震・津波では死者24人・被害家屋691,また安政元年の地震・津波・火事は死者13人・焼失家屋460・潰家など16の大惨事であった。打毀の発生件数は多く,特に安永6年・天明6年の規模は大きかった。幕末に入ると,安政元年佐久間象山の門弟柏木淡水が二の丸南の砂丘上に大砲台場を築き,田辺城の内陸部移転が検討されるなど海辺防備をめぐって大いに揺れた。また安政2年には与力の家中編入をめぐって騒動となり,1年3か月の長きにわたってもめ続け,18家が田辺を離れて決着をみた。明治元年田辺藩が成立することになり,同2年藩庁を二の丸に置いて政事府と称した。田辺藩の成立は江戸詰・和歌山詰藩士の田辺帰住を伴い,彼らへの宅地供給が急務となった。そのため湊村地内の城下武家屋敷地東接地および扇ケ浜の一部をその用地とし,松林などの開拓が行われた。しかし屋敷の完成前に廃藩置県をむかえ,帰住者たちは和歌山など住み慣れた地へ移り,新屋敷地の多くは耕地化した。明治3年田辺城地や武家屋敷地に町名が付けられ,上屋敷町・中屋敷町・下屋敷町・新屋敷町が成立し,また袋町は吉字の福路町に改めた。翌4年には上長町と下長町が合併して栄町に,南新町のほぼ西部は今福町となり,合計13か町となった。同年田辺県を経て和歌山県に所属。同6年江川浦は江川町と改称。戸長役場は本町に置かれた。同年には戸数1,820,男3,723・女3,762。明治10年ごろの概況は戸数2,399・人口9,957,面積191町7反余うち田53町4反余・畑83町1反余・宅地55町1反余,葛・梅干は名高く,葛は東京・京都へ,梅干の多くは東京へ移出。ほかに当地を経て移出される物品は木炭・茶・線香・生蝋・櫨実など,米・塩その他の物品は多く移入した。港への出入船舶数は570(県勧業課第一年報/県史近現代5)。「共武政表」は特産として魚・茶・梅干・炭・シイタケを掲げる。なお明治8年には本町に田辺警察署が設置され,丸の内馬場所に明治2年開校した旧藩学校跡に西牟婁郡役所が同12年に設置された。江戸期以来,城下各町は当初の町割域を越えて湊村地内へ膨張,その地は年貢地とされ,湊村が各町から年貢を取り立て代官所へ上納し,地籍は湊村に入れられたままであった。一方,その土地に建つ建物および住民は各城下町に属し,所属先に異同を生じていた。これらの異同は明治22年の市制町村制施行に際し整理された。明治12年西牟婁郡に所属し,同22年田辺町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7405299 |