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田辺市(近代)


 昭和17年~現在の自治体名。田辺町・下芳養【しもはや】村が合併して成立。町制時の14町2大字に芳養町を加え,15町2大字を編成。市制施行時の面積15.45km[sup]2[/sup],戸数7,189・人口3万2,818。昭和25年万呂村・稲成【いなり】村・下秋津村を合併,上万呂・中万呂・下万呂・稲成町・秋津町の2町3大字を加え17町5大字を編成。同29年新庄村を合併し18町5大字となる。同30年西富田【にしとんだ】村を合併,才野・堅田【かたた】を加え18町7大字となるが,同33年同2大字は白浜町に編入される。同39年牟婁町を合併,町制時の10大字を加え18町15大字を編成。昭和20年2月日本本土14番目に設置された田辺海兵団は,2,800余人の規模であったが第2次大戦終結を機に廃止された。翌21年近畿では舞鶴に次いで2番目の海外引揚援護港に文里港が指定され,台湾の9万3,000人をはじめ東南アジア方面から総計22万人の軍人軍属および一般の人々が引き揚げてきた。わずか8か月で閉局したが,その2か月後に南海大地震が発生し,その津波とともに大被害をうけ,死者・行方不明者69人,全半壊家屋727戸にも及んだ。熊野街道(大辺路)は昭和20年国道41号に,同34年に国道42号となる。同41年には国道バイパスが市街地北部に開通し,和歌山~田辺間の舗装も完成した。人口集中と職住分離による住宅難解消のために昭和32年から丘陵開削,海浜埋立てが行われ住宅団地が形成された。10万m[sup]2[/sup]以上の明洋・新万・朝日ケ丘・喜久住・内ノ浦・目良【めら】団地のほか,新庄町滝内に45万m[sup]2[/sup]の団地が建設されている。昭和52年,この団地のうち新万・朝日ケ丘が大字として起立,同年扇ケ浜が起立,昭和43年埋立地に江川桝潟町1~5丁目が起立し,現在23町18大字を編成。漁業経営体数は昭和38年178,同48年328(漁業センサス)。昭和45年の農業耕地面積2,137haうち田736ha・樹園地1,338ha・畑63ha,総農家数3,158戸うち専業農家879戸・林業兼業24戸・漁業兼業12戸(世界農林業センサス)。昭和33年ごろからスーパーができはじめ,同41年には国道バイパス沿いに卸売団地が建設される。同50年代に入り,大型スーパーの進出もみられた。昭和46年国体の開催地になったのを機に紀伊田辺駅前の整備が行われ,駅前広場に観光用の弁慶像も立てられた。また同53年ごろから商業近代化地域計画により,都市道路の整備,共同店舗の建設が計画され,駅前を中心に4~7階建てのビルが出現してきている。田辺市役所も昭和46年旧田辺高校跡地の近代的ビルに移転した。世帯数・人口は昭和25年8,598・3万7,602,同35年1万1,887・4万8,673,同50年1万9,684・6万6,999。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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