日高郡

慶長5年入国した浅野氏は翌6年に紀伊国総検地を実施。この慶長検地の結果を集約した慶長検地高目録によれば,村数132,村高合計4万4,793石余。これ以降,「元禄郷帳」では各枝郷をも含めて村数183とあり高4万4,910石余,「天保郷帳」では村数148・高4万8,671石余,「旧高旧領」では村数151・高4万8,733石余となっている。浅野氏の時代では,田辺に配された浅野左衛門佐が所領3万石のうち当郡内に18か村で8,318石余を領したが,元和5年徳川氏入国以後は,左衛門佐の所領を基に与力知を含めて3万8,000石を領した付家老田辺安藤氏領の一部が設定された。それは寛永7年時で,25か村・1万726石余,南部組と切目組に編成されていた(日高郡より牟婁郡へ入申高書付/日高史料)。また新宮の付家老水野氏も荊木村と財部村の各一部に所領を有した。延宝6年の大指出帳(日高鑑)によれば,いわゆる本藩領は7組に分けられ計146か村,それぞれ大庄屋名を付して,川瀬勘右衛門組21か村・6,637石余,塩崎五郎左衛門組17か村・6,592石余,糸田久大夫組17か村・6,588石余,中村善次兵衛組18か村・6,512石余,弓倉理大夫組27か村・6,806石余,当時大庄屋欠役の中山中組32か村・3,938石余,松本彦太郎組14か村・2,131石余となっている。のち大庄屋の居村名を付して志賀組・入山【にゆうやま】組・江川組・天田組・南谷組・山地組および中山中組と呼んだ。7組のうち,海岸部の5組は6,000石余にまとめられているが,それに比べて山間部の2組は高が少ない。志賀組には海部郡のうち南海部12か村が含まれているが,これは寛永17年南海部の地が日高郡代官の管轄となり,郡内諸村と同様に支配されたことによる。また入山組のうち旧三尾荘9か村は西口の名で呼ばれていた。なお各組には,土豪層などを編成した山家同心・隅田組・六十人地士がいた。大坂両陣の際,浅野氏出陣をついて当郡の土豪層も参加した土豪の一揆がおきており,各編成に徳川氏の土豪層政策がうかがえる。延宝6年の大指出帳(同前)による7組の人数3万8,616,家数9,212軒うち本役2,915・半役2,460・四分役74・無役2,775など,牛馬数3,329,船638艘うち廻船174・いさわ48・漁船362・磯船8・川船46,網数190帳うち地引74・まかせ4・四艘張19などで,他にかけ網40把とある。文化5年に書写された諸色覚帳写(保田家文書/県史近世3)は18世紀初期の実態を示しており,同史料による当郡は次のように見える。家数は9,914軒うち本役3,686・半役3,355・無役2,873。人数は4万5,486人。牛馬3,459疋。海船609艘,そのうち廻船83・いさわ72・漁船366など。川船は82艘。網数は224帳,そのうち地引84,まかせ2,四艘張15など。耕地は,田が多く畑は少し,麦・米両作のみのりは中分より劣る。ただし米の作柄は上々。里方では木綿をわずかながらも作っており,綛糸を多く仕出していた。産物としては粟・稗・黍・大豆・小豆・蕎麦・芋・菜・大根を多く作り,他に麻・茶・紙木・漆・串柿および菓類少々も作られていた。山方は,村々の多くが材木・炭・切木柴・木地挽の稼ぎをしており,葛・蕨・ゼンマイ・椎茸も少々穫れた。浦方では,山も多く,海・山両方の稼ぎができ,川筋では鮎漁を行った。諸魚は多く捕れ,上方へも送っており,また漁師は関東・西国・四国などへも出漁していた。大指出帳と諸色覚帳写を比べると,家数・人口の増加が認められ,廻船業にかわって漁業が盛んになっていることがうかがえる。漁業は地先のみならず遠隔地出漁も盛んであった。印南浦の漁民は土佐沖へ鰹を追って出漁し,土佐へ鰹節の製法を伝えた(紀州日高郡印南浦漁船二十八艘船頭共願状/日本漁業経済史)。また津久野浦や唐子浦からは,寛文年間から銚子(千葉県)方面へ鰯網が出漁しているが,享保11年には鰯網5張に漁夫75人が銚子へ出漁し,同16年には浦中39軒のうち関東出漁31軒を数えた。一方,廻船業は,元和年間に始まると伝える。寛文7年には,根拠地である薗浦に29艘,御坊町に17艘,名屋浦に16艘の廻船があり,江戸通船として比井浦・富田【とんだ】浦・大川浦までも包括して日高組に一本化されてきたが,宝永4年西宮に酒積問屋が成立したのに伴い,比井組が分かれた。同組は樽廻船として酒荷を輸送し,日高組は菱垣廻船として薬種類・灯油・鉄などを運送した。宝暦年間には日高・比井両廻船とも樽廻船として活躍し,寛政5年には富田廻船が日高廻船にくみ込まれるなどしたが,文政年間から天保年間にかけて衰退の一途をたどり,天保4年に菱垣廻船に合体された。18世紀末ごろからは,日高川中下流域の村々では,産業諸部門の展開がめざましく,織屋・紺屋・鍛冶・鍋釜鋳掛・桶屋・箕かご細工・大工・左官・瓦・畳・小間物・古手・醸造・肴屋・豆腐・薬種・荒物など店舗をかまえる以外に行商人の活動が伸びた。例えば寛政年間では江川組20か村で職人97人,商人99人がかぞえられる。こうした社会的分業は,主として,大坂市場を目あてにして急速に生産が増加した綛糸と,木材の生産によるところが大きい。また三尾浦からは,幕末には京都・大坂・堺方面へさかんに魚荷物が送られている。このような動向に対応し,和歌山藩は領内の交通の要衝に御仕入方役所を設置して国産物の専売制をはかろうとし,郡内では印南浦・下越方村・福井村・高津尾村・横浜浦・三尾浦などに役所を置いた。幕末の動乱は当地もその渦中に巻き込み,藩の海防政策によって近世初期以来編成されていた浦組の動員体制がとられるようになった。天保12年には志賀・入山・天田・南谷の4組で15歳以上60歳までの男子5,845人,船380艘と,その指導にあたる地士帯刀人87人となっているが(御増補浦組調書上帳/日高郡誌),安政3年には,人数5,503人,船256艘とやや減っているものの,地士帯刀人諸役人193人を把握して支配体制を強化し,濱ノ瀬に固場を設けた。また山地組の帯刀人村役人なども動員し,和州十津川境や高野寺領境の固場に詰めさせるようにしている(増補組替浦組御備帳/同前)。このように浦組は海防だけでなく,藩内の治安維持をも目的に機能させられた。浦組を維持運営するための費用は口6郡の有産者からの御用金を充てた。日高郡では13人が5,100両を藩から割り当てられているが,実際は完納されなかった(評定所より被御付候御立用一条/栗木家文書)。なお,適塾で学んだ因幡出身の松村元泰の考案した海防策の「昇平三防録」の図解書「海防策器械図」が,近年旧入山組大庄屋宅より発見されており,当時の緊迫した世相を十分にうかがわせてくれる。慶応4年戊辰戦争に敗れた幕軍は海路より帰国するため南下,その敗兵を見ながら,当郡の人々は新しい時代の訪れを知った。明治2年藩政改革に伴う郡制刷新により日高民政局が設置され,郡内の本藩領と新宮領(財部,南荊木)を管轄下に入れた。同3年に日高郡民政局を廃して有田郡民政局へ合併して2郡を統治した。同4年廃藩置県により有田出庁(のち出張所と改称)へ移管した。同5年に日高出張所が新設され,田辺県域の切目・南部両組を管轄した。当郡は第6大区とされ,旧藩時代の組を基に,第1小区旧志賀組,第2小区旧入山組,第3小区旧天田組,第4小区旧江川組,第5小区旧中山中組,第6小区旧山地組,第7小区旧南谷組の7小区を和歌山県の直轄とし,第8小区とした旧切目組・南部組は南出張所が統治した。同10年には停泊する船舶に関する事務と難船を取り扱う浦役場が県下で26か所設置されたが,当郡では横浜村・比井浦・濱ノ瀬浦・印南浦・南道村の5か所があり,小区長が兼任した。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7406252 |





