藤白(古代~

飛鳥期から見える地名。名草【なぐさ】郡のうち。中世では大野郷に属した。藤代とも書き,南北朝期には藤代郷とも見える。初見は「日本書紀」斉明天皇4年11月10日条に,「丹比小沢連国襲を遣して,有間皇子を藤白坂に絞らしむ。是の日に,塩屋連
魚・舎人新田部連米麻呂を藤白坂に斬る」とあり(古典大系),斉明天皇の施政に批判的であった有間皇子らが謀反の疑いによりとらえられ,天皇が滞在する紀温湯(西牟婁【にしむろ】郡白浜温泉)に護送された帰途,当地で処刑されたとする。その時の皇子の歌2首が「万葉集」に載る。また,当地の藤白峠からの眺望は見事であり,「万葉集」巻9に載る大宝元年10月の持統・文武紀伊行幸の際の歌13首の中の「藤白のみ坂を越ゆと白𣑥のわが衣手は濡れにけるかも」という歌(古典大系)をはじめとして,中世にいたるまで多くの歌に詠み継がれ,「内裏名所百首」「続後撰集」「草根集」などに歌枕として「藤白の御坂」などと見える(和歌山市史4)。院政期になると中央の権貴による熊野詣でが活発になるが,当地に立ち寄ったことを記すはやい史料である「大御記」によると,永保元年9月21日に京都を出発した藤原為房一行は22日天王寺,23日和泉国,24日日根王子,25日雄山口を経て,26日の夕方に当地に着いており,同日条には「径国府南路故,参日前・国懸両社奉幣,酉剋,着藤代人宿,吉志庄・賀田庄送種々物,今朝浴紀伊御川解除」と記している(県史古代1)。当地には熊野九十九王子社のうちの五体王子の第1とされる藤白王子が置かれるが,康治2年1月7日の藤代王子八女惣一職補任状(鈴木家文書/海南市史3)に「藤代王子」と見えるのが,王子として見える早い時期のものである。ただし,この史料は検討を要する。また,応保2年11月日の紀伊国大伝法院僧徒重解案(根来要書下/平遺3234)にも「藤代王子」と見え,さらに「吉記」の承安4年9月25日条にも「去夜雨雖下,天已晴,於藤代王子行里神楽」とある(大成)。なお当地は熊野詣での宿泊地ともなっていたようで,前掲の「大御記」には「藤代人宿」と見え,また,嘉応元年9月日の紀伊国大伝法院衆徒解案(根来要書下/平遺4862)によると,熊野御幸役として大伝法院領渋田・弘田両荘に対して「紀伊国藤代御宿」の造進が命ぜられたが,大伝法院衆徒等はその免除を請うている。下って,鎌倉期の「明月記」建仁元年10月8日条には「次参祓戸王子,次入藤白宿〈不及御所,三町許小宅也〉窮屈平臥」と見え宿所の様子を記す。また「頼資卿記」承元4年4月24日条には「及申刻,仍垂鞭栢屋・大野坂・松代・菩提坊・鳥居等王子参如常,直参藤代御宿,入御已余一時云々」と見え,翌25日条には「朝御浴・御拝・御禊了出御,参御藤代王子,依五体王子,御先達已下有馴子舞,其外事一如例」とあり,前掲の「吉記」の記事にも見られたように,この時里神楽が奉納されたことを記す。同じく建保4年3月13日条,建保5年7月7日条には,「藤代神主宅」と見え,藤白王子の神主宅に宿泊したことがうかがえる。このほか「経俊卿記」(図書寮叢刊)にも藤原経俊の熊野詣での記事が見え,当地のことを記す。なお「尊卑分脈」によると藤原親経について,「承元四十十六南山下向之時於藤代宿薨〈六十〉」と記す。下って,南北朝期の観応2年5月20日の守護畠山国清書下(鈴木文書/大日料6‐15)によれば,「紀伊国藤代王子社壇造営事,彼別当未定之間,以藤代郷所預置于神官社司等也」とあり,畠山国清が藤白王子の神官に藤代郷を預け置き,藤白王子社壇造営料に充てることを命じている。室町期の応永7年正月日付の表紙をもつ三上荘大野郷年貢帳(禅林寺文書/県史中世2)の鳥居村分のうちに「五十歩〈本馬大郎 藤白田出〉」などと見え,当地は,大野郷の鳥居村に含まれていたと思われる。また同帳に収められている紀伊国名草郡三上荘大野郷田数目録に神田分として「三丁三反〈公田〉藤白王子免」とあり,大野郷内の神社では最大の神田を有していたことがわかる。さらに下って戦国期の天正6年2月吉日に書写された禅林寺所務帳(同前)には,「〈禄ノ坪 二迫〉一反 一式十月念仏田祐見大姉 加地子麦六斗 米一石三斗 所役五百文 藤代王子へ沙汰」とある。なお室町期の「明徳記」「熊野詣日記」や戦国期の「尋尊大僧正記」「蓮如上人紀伊国紀行」「厳助往年記」「証如上人日記」などにも当地のことが見える(和歌山市史4)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7406393 |





