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三輪崎村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。牟婁郡のうち。和歌山藩新宮領城付。佐野組に所属。村高は,慶長検地高目録では佐野村とともに1,661石余,ほかに小物成1石1斗余,「天保郷帳」759石余,「旧高旧領」762石余。元和年間683石余,正保3年1,048石余,弘化3年1,048石余ほかに新田高76石余(新宮市史史料編上)。また宝永5年の佐野組郷帳(石垣家文書/熊野の史料と異聞)によれば,村高683石余,家数278軒,人数1,498,船数34,うち漁船32であった。安永2年の大指出帳(同前)によれば,村高683石余,家数105軒,人数は8歳以上2,067,舟数80。明和~寛政年間ごろの「紀州新宮領分見聞記」によれば,家数250軒,鯨船の納屋である六軒納屋があった(続熊野の史料)。以上のような船数の倍増や納屋の存在から,漁業が益々盛んになってきたことがわかる。このため当村は浦として江戸初期から課役があり,慶長16年8月16日の加子米究帳(栗本家文書)では水主役数61(先高59)・代納升高63石余,また御領分加子米高帳(田中家文書)によれば江戸初期の水主米高69石余であった。「続風土記」には「鍛冶屋十八軒 其始詳ならす,古は二十五軒ありしに今は十八軒となれり」とある。三輪崎鍛冶は主として鏃を製造し,諸国からの注文も受けており,原料は当村海上の鈴島の砂鉄といわれる(新宮市史)。なお鈴島の岩石が荒砥に適し,室町期以前に戦いに敗れた武士が来て,同島で鍛冶を始めたのがその起こりと伝えられる(同前)。正徳2年高田村と佐野組村々との間で入会権をめぐる争論がおこり,享保14年には当村地方庄屋札右衛門・鍛冶方庄屋平吉・浜方庄屋勘兵衛代肝煎伝七などが連印して一度内済しているが,その後も争いがつづき,明治25年にまで至ってようやく解決した(新宮市史史料編上)。第9代領主水野忠央は新宮萩野に精錬所を設け,鍛冶36軒を集めたが,当村の鍛冶がその主流をなしたといい,そのため当村鍛冶は幕末には1軒に減少した。また当村の捕鯨技術は遠く九州まで,鰹節製造の技術は土佐・薩摩にも伝えられたという。当村は外洋に面しているので,古くから海防の拠点とされ,享保3年段階でも異国船への監視を厳しく行っていた(新宮附浦方組帳)。産土神は上諏訪社と佐野村の下諏訪社。両社とも堀内安房守の勧請で,佐野組村々の産土神(続風土記)。神社は鈴島に衣比須社,孔島に弁財天。寺院は曹洞宗竜雲寺・宝蔵寺。竜雲寺は村内の鍛冶仲間が建立したと伝える。明治4年新宮県を経て和歌山県に所属。同6年には戸数969,男1,333・女1,325。同9年浦役場設置。同10年ころの戸数644うち農75・工16・商65・漁400・雑88,人口2,743,耕地114町6反余うち田69町6反余・畑44町9反余,地租1,796円余,農産物は米・麦・大豆・粟・甘薯・実綿・木綿など,海産物は鯨・鰹・鰺・鯖・海老・烏賊など,製造物は製茶450斤,港口出入船舶数1,500であった(県勧業課第一年報/県史近現代5)。同19年新宮~三輪崎間に県道が開通し,はじめて人力車の通行が可能となった。明治18年静岡県遠州鴻益社が,大安丸を配船し,阪神~三輪崎間の定期航路を開き,のち阪神~熱田間に延長し,第一・第二鴻益丸を就航させた。同21年鴻益社と共立汽船が合併し,共立汽船会社を設立し,当村に回漕店を設置。明治12年東牟婁郡に属し,同22年三輪崎村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7406820