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由良荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。海部郡のうち。湯良とも書く。蓮華王院領。「吾妻鏡」文治2年8月26日条に「於蓮花王院領紀伊国由良庄,七条細工紀太搆謀計致濫妨之由,領家範季朝臣折紙并 院宣到来之間,今日令下知給之云々」とあり,続けて当荘の荘官に下された同日付の源頼朝下文のほか,同年閏7月24日付の木工頭範季書状,同29日付の後白河法皇院宣が収載されている。これら3通の文書によれば,当荘の本家は京都蓮華王院,領家は藤原範季で,範季書状・後白河法皇院宣には「広・由良荘」とあるところから,当荘および北接する広荘に対して銅細工七条紀太による押妨事件が起こっていることがわかる。領家である範季は,七条紀太の押妨を訴えたが,後白河法皇院宣を得たため,源頼朝下文では院宣の旨に任せて七条紀太の押妨を停止するよう命じている。同じく9月25日条には,「彼一通,今日所到来也,是紀伊国由良庄七条紀太濫行事也」と見え,9月11日付の召使藤井則国言上状が収められており,この事件の首謀者は平家家人平貞能の郎従高太入道の弟藤三郎吉助で,その背後に吉田中納言阿闍梨がいたことなどが知られる。その後,嘉禎2年4月4日の関東下知状案によれば,葛山五郎願生は将軍家の菩提を弔うため「紀伊国由良庄地頭職」を高野山金剛三昧院に寄進する旨を申し出て,これを認められている(金剛三昧院文書/高野山文書2)。この間の事情については,翌5日付の葛山五郎入道願生書状案に詳しく(同前),願生はもと葛山景倫と称し,源実朝の近習であったが,実朝の死後,出家して名を改め高野山に入ったため,実朝の母政子が願生に当荘の地頭職を与えたという。これを願生は金剛三昧院に寄進することとしたが,その条件として,願生の老母と姉女房駿川局とその子息鶴王丸の存命中は,毎年正月27日・7月11日の実朝・政子2人の御遠忌日の大斎料能米1石と炭50籠を金剛三昧院に送るのみで,彼らの死後にすべてを寺家の進止とすることとし,さらに当荘内に2人の菩提を弔うために建立した西方寺(のちの興国寺)周辺の田畠は,同寺の仏聖人供とするために寄進の対象からはずすことなどを定めている。さらに文永元年8月9日の葛山五郎入道願生寄進状案では,願生は自らの死後のことを考え,改めて金剛三昧院に寄進する旨を記し,当荘内の西方寺を覚心に譲るものとしている(同前)。その後,弘安4年3月21日の鎌倉将軍家御教書案は金剛三昧院の草創の次第などについて記しており,「当院庄園永不可有窂籠子細事」として4荘2保を挙げているが,このうちに「紀州由良庄〈大臣家月忌領〉」と見える。本文書からこのころにも当荘は源実朝の月忌領として存在していたことがわかるが,金剛三昧院の支配力は後退しつつあったため,執権北条時宗は当荘を含む4荘2保の安堵を行い,守護の押妨を禁じている(同前)。また同6年5月の金剛峯寺衆徒愁状案によれば,高野山と相賀荘の坂上盛澄との間で争われた天野社の神馬相論に際して,盛澄らの悪党が金剛三昧院の寺庫を打ち破るという風聞が流れたため,「河内国新開庄并当国湯良庄官等」を集めて寺庫を警固させている(高野山文書/大日古1‐2)。金剛三昧院領としての当荘は,南北朝期に入っても,建武元年10月5日の後醍醐天皇綸旨によって当知行を確認されており,「高野山金剛三昧院領筑前国粥田庄……紀伊国由良庄」と見える(金剛三昧院文書/高野山文書2)。しかし室町期に入ると,高野山の支配力は大きく後退し,応永7年正月18日の高野山金剛峯寺々領注文には,紀伊国の不知行分として「由良庄公文職〈花王院領〉」と記されている(勧学院文書/高野山文書1)。このころから当荘の人足役をめぐって興国寺(もとの西方寺)との間で相論が続いており,応永26年5月3日の室町幕府奉行人連署奉書案では「紀州興国寺雑掌申,当寺領由良庄領家職,同地頭職内畑村等人足事」として,興国寺は守護畠山氏に訴えているが,願生の置文などに基づき,金剛三昧院の支配が認められている(金剛三昧院文書/同前2)。しかし相論は容易には解決せず,永享7年10月日の金剛三昧院雑掌慶吽言上状案によれば,興国寺は願生置文と称するものを根拠に,当荘の一部を高雲荘と号して違乱を続けたものと思われ,金剛三昧院は畠山氏に訴えたが,守護方奉行所は興国寺とともにこれを妨害して上申せず,いたずらに年月を送っているため,再び訴えるに及んだという(同前)。しかし事態は解決を見ず,永享8年6月日の金剛三昧院住持宥済言上状案では,さらに室町幕府に訴えたが,奉行人松田対馬守貞清がこれを受理しなかったため,金剛三昧院は庭中に直訴している(同前)。この結末については明らかではないが,その後「金剛三昧院旧記」に収められた文明8年正月吉日の成範年貢皆済状案から,当荘の年貢が金剛三昧院に皆済されていることがわかる(同前)。この時期に至っても興国寺の違乱が絶えたわけではないが,翌9年7月11日の室町幕府奉行人連署奉書では「当院領紀州由良庄地頭半分,同新田,佃名田,麦有田,并惣庄所済人足以下事」について,興国寺の違乱を停止する旨が命ぜられており,同日付の足利義政御判御教書では「由良庄地頭職段銭諸公事,臨時課役人夫以下事」が免除され,併せて守護不入の地であることが確認されている(同前)。なおここで問題とされた佃や麦有田(麦生田)については,現在も大字里の小字名として残る。また明応6年11月5日の天用証文によれば,「由良庄地頭分公用」について,随鷗斎天用の子湯河孫三郎が毎年30貫文を金剛三昧院に進済すべき旨を請け負っており,湯河孫三郎がこれに裏書を加えている(同前)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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