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浦富村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。因幡【いなば】国岩井郡のうち。江戸期は陣屋町で浦富(留)町とも呼ばれた。鳥取藩領。村高は,拝領高630石余,「元禄郷村帳」730石余,「天保郷帳」681石余(うち新田高50石余),「元治郷村帳」722石余,「旧高旧領」748石余。元禄の本免は4.9,「元治郷村帳」の物成は304石余。天正9年~慶長5年までの20年間垣屋氏の居た桐山城の城下町であった。寛永15年に見張番所が置かれ,同20年より番士が15日交替で詰めたが,承応4年に定番制(番士1・無苗者2)となり,監視報告をさせた(岩美町誌)。万治2年には当地に,伴天連訴人の高札がたてられている(鳥取藩法集)。正徳5年幕府へ提出した記録に,賀路村・泊村・赤崎村・境村・米子とともに,因伯灘手の港として注目されている(県史9)。年貢不足による追放人は,宝永7年2人,正徳元年8人,同4年8人,元文3年は妻子を含めて41人,延享2年2人(因伯御追放人帳)。元禄10年藩の着座となった鵜殿長春は,同15年に預かった鉄砲50挺の内10挺を浦住に置く。鵜殿長発は天保13年8月に「自分手政治」をする許可を受けたが,彼は町浦富村452石余・浦富村304石余・長谷村70石余・宇治村28石余・陸上村19石余・高山村17石余・牧谷村15石余・本庄村14石余・新井村13石余を知行地としており(明治4年直納家禄渡帳/石谷文書),異国船騒動による海防の急務が,鵜殿家の自分手政治の実現と考えられる。緊迫化した海防問題に対処するため,天保13年11月には200目玉大筒1挺・100目玉大筒1挺を浦留に置き,翌年3月には鉄砲足軽20人を浦留詰としている。同15年には浦留構の沖合深浅の調査,文久3年には台場を築き,鉄造12斤砲・同6斤砲・同5寸砲の3門を備えた。家老長発は平素は鳥取住まいであったと考えられるが,自分手政治の執務は陣屋で行われ,家臣は殿町に居住していた。天保13年10月鵜殿長発は,本浦住村の呼称を浦富村,町浦住村を町浦富村と改称した。以後,当地は陣屋町として町方支配をうけた。正保2年の特産として,タイ・イカ・ツノジ・マス・アワビ・サザエ・ホシダラなどがあり(稲葉民談記),製塩業も営まれ運上として13石余が課せられているが,天保15年までに廃止されている(藩史6)。文化5年鯨を捕獲し,入札処理した(県史10)。弘化3年頃,長発は防波堤の構築を意図したが,実現しなかった(御国日記)。文化10年5月大火により70余戸焼失(因府年表),天保11年火災のため湯村より預かっていた馬6疋を返した(県史12)。当地への藩主の遠馬は,8代斉稷が文化6年・9年の2回,9代斉訓は天保3年の2回と同5年・7年・9年・10年・11年の計7回がみられる(県史11・因府年表)。文政12年十蔵は法橋光琳正筆の3幅を献上している(県史12)。慶応初年の調査によると,習字師に川上理平,男子生徒60・女子生徒13による寺子屋が置かれていた(藩史3)。明治4年鳥取県,同9年島根県,同14年再び鳥取県に所属。明治4年融通座ができた。同7年田後小学校が設立され,教員数1・男子生徒数27・授業料月37銭(県史近代5)。同10年町浦富村を編入し,一部が分村して田後村となる。同12年の戸数422・人口2,192,物産は米・麦・稗・芋・イワシ,学校1,牛72,日本形船95(共武政表)。同17年浦富郵便局が開設,翌年には貯金業務を始めた。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7407483