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黒坂村(近世)


 江戸期~明治3年の村名。日野郡のうち。黒坂町・黒坂宿とも称した。鳥取藩領。「文久3年組合帳」によれば,享和3年横手村を当村新田として幕府に届け出,天保5年枝郷として分村した。村高は,拝領高238石余,「元禄郷村帳」238石余,「天保郷帳」142石余,「元治郷村帳」116石余,「旧高旧領」には「黒坂宿」と見え116石余。元禄の本免は6.4,「元治郷村帳」の物成は24石余。戸口は,寛政8年162戸,「伯耆志」179戸・716人,「文久3年組合帳」160戸。当村は池田家の家臣福田氏の自分手政治が行われ,福田氏から苗字を許された町人の中から目代が選任された。しかし,目代の権限は村庄屋の取り扱う程度の,町内における軽微な犯罪の処理にとどまっていたといわれ,「所払い」などの処置については,在方役人と熟談の上で処置するように定められていた(県史3)。当地は日野往来の宿駅でもあり,すでに寛永14年の因幡伯耆駄賃銀宿賃書付にも当地の名が見える。ただし,同史料には駄賃銀のみの規定があり,駄賃規定の出発地としては記載されず宿賃も記されていない。よって,宿の機能は果たさず,人馬継立のみをする「駅」であったと考えられる。文政13年の当宿の駅馬数は14匹(日野町誌)。また,万治2年には制札掲示場に指定され,安政3年には宿送継場となった。文化14年6月,当村鋳物師七兵衛は禁裏御所御用灯の鋳造を仰せ付けられた(県史10)。安政6年6月,馬座の馬持共の困窮により御用荷継が差し支えたため,馬座を村中持とすることを願出,許可された(県史12)。庶民教育のための寺子屋開業は,安政2年医者高橋良亮(生徒数男13),文久元年医者長谷部茂喜(同男20),天保11年僧侶富沢恵文(同男8),嘉永7年山上範平(同男23・女3),弘化2年医者松尾恭平(同男17)の5件に及ぶ(藩史3)。氏神は聖権現,客大明神,稲生大明神,姫宮大明神の4社があった(伯耆志)。浄土宗光西寺は寛永8年の創建と伝えられ,知恩院の末寺,福田氏の檀那寺として栄えた。浄土真宗光徳寺は大谷派本願寺の末寺で,慶長13年建立と伝えられる。曹洞宗泉竜寺は創建年代不詳で数度の水・火災を経て寛政元年再建された。同寺は幕末期因幡二十士謫居の寺となり,その遺品・書画・詩文などを所有している。曹洞宗光明寺は永禄年間創建と伝えられ,はじめ天台宗,慶長年間に曹洞宗に改めた。日蓮宗正法寺は米子感応寺の末寺で,慶長8年開基と伝えられる。明治3年,黒坂宿と改称。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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