島村(近世)

江戸期~明治22年の村名。因幡【いなば】国八東郡のうち。鳥取藩領。もとは南村の枝郷で,享和3年新田として幕府に届け出,明治3年領内限りで分村した(藩史5)。ただし,「元治郷村帳」では1村として村高が記されており,すでにこの時期には領内限りで1村としてみなされていたものと思われる。村高は,「元治郷村帳」327石余,「旧高旧領」335石余。元禄の本免は6.4,「元治郷村帳」の物成は187石余。戸数は,「因幡志」では当村の本村南村を含め90戸と記され,「文久3年組合帳」では当村のみ33戸と記されている。「因幡志」によれば,観音を本尊とする辻堂があり,氏神は牛頭天王とある。当村の新田開発は困難なものであった。荒地であった間所免地域では,寛永10年頃から貞享までの約50年間に登録された新田の筆数が15,面積にして2反2畝18歩,元禄8年までに28筆が加わり寛政年間に3筆追加され,天保頃には51筆,面積にして8反3畝2歩5厘となった。天保年間になると村外の地主がみられるようになる。明治4年鳥取県,同9年島根県,同14年再び鳥取県に所属。明治12年の戸数30・人口147(男72・女75),牛18,物産は米(共武政表)。同15年の物産は,米466石・麦106石・菜種4石余・繭8貫であった(八頭郡誌)。同22年逢郷【おうさと】村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7408537 |





