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袋河原村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。因幡【いなば】国八上【やかみ】郡のうち。鳥取藩領。村高は,拝領高400石余,「元禄郷村帳」470石余,「天保郷帳」400石余,「元治郷村帳」524石余,「旧高旧領」528石余。元禄の本免は6.5,「元治郷村帳」の物成は317石余。戸数は,元禄年間40,「因幡志」56,「文久3年組合帳」70。「因幡志」によれば,隣村へは,東の片山村へは千代川を隔てて10町,北の円通寺村にある舟渡場へ9町余,上方街道筋にあたる。また,氏神は片山村にある分八幡宮,ほかに辻堂が2つ,本尊は阿弥陀・観音。長瀬【ながせ】の前を通り七ツ山の山麓を流れ,布袋村の西南を東に折れ円通寺村に向かっていた流路が,文禄2年高麗水の大洪水で変わり,その後,片山村の北方宮原千軒というところにあったものが,千代川西岸の位置に移転したという。智頭・八東両川の合流点にあり,水勢の激突部にあたるため,洪水ごとに耕作の変動や住居の移動があったものと考えられる。「稲葉民談記」によれば「当国郡中村々本社氏神記」に「一,袋河原 片山ヲ用(フ)」とあるところからも,出作百姓によって開けた片山村の分村と考えられる(河原町史)。慶長年間,池田鳥取藩と亀井鹿野藩との間で,袋河原と河口賀露との領地交換が行われ,亀井茲矩は袋河原付近に用水堰を築造し,高草大井手用水を掘り千代川左岸の水利を図った(稲葉民談記)。慶長年間に半石積の胡摩土手,寛政7年大洪水の復旧で富豪上田氏が櫨土手を築造し,千代川左岸の水防の拠点となった。慶応2年には南北に延長し補強された。上方街道沿いに位置するため,藩主参勤交代時には大庄屋上田家が休息所とされ(袋河原之調査),文久3年間馬継となった(藩史5)。安永元年,当村ほか3か村と下砂見村との間で入会争論が起こった(県史9)。安政5年の「御改正組合帳」によると,軒数79,5人組数12,中庄屋は上田半左衛門,庄屋は宗次郎,組頭年行司は次郎左衛門・弥右衛門。慶応2年林良造が私塾を開き,明治8年には袋河原小学校の経営に当たった。純農村ではあるが,酒造業,糀製造,製油業,製糸業,川舟による運輸業などが一部で営まれ,屋号も残る。また「稲葉民談記」によると,サケ・マス・アユ・ウグイ・ナマズ・ウルカを獲った。明治4年鳥取県,同9年島根県,同14年再び鳥取県に所属。明治12年の戸数93・人口411(男199・女212),水車1,荷車14,船1(共武政表)。同20年頃の戸数98,人口417(男200・女217),漁船1,人力車5,荷車4,物産は米(630石)・麦(45石)・生糸(250斤)・繭(70貫),職業は,男子農業者75戸・同雑業者17戸・同商業者2戸,女子農業者120人・同裁縫従事者1人・同養蚕製糸従事者8人,小学校の生徒数は男65・女12(河原沿革誌)。同22年三保村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7409691