忍原(中世)

戦国期にみえる地名。石見国邇摩【にま】郡佐摩【さま】郷のうち。永禄元年の毛利・尼子両氏の大森銀山攻防戦にあたり,毛利軍は川本温湯【ぬくゆ】城に拠る小笠原長雄討伐を先決とし,元就は自ら池田まで進出し,吉川軍を主力とする攻撃軍を繰り出した。これに対し尼子晴久は大田【おおだ】まで進出,7月下旬銀山背後の忍原・別府へ別働隊を派遣し,池田・川本間,池田・銀山間への補給路を遮断する作戦に出た。この結果毛利軍は大敗を喫し,石見銀山は尼子氏の手におちた。これが「新原崩れ」といわれるもので,「新原」とは忍原のことであり,「うしんばら」とも呼ばれ石見銀山への要路にあたっていた。永禄元年7月晦日の「毛利元就書状」(毛利家文書/大日古8)に「忍原之事,落居之由」とみえる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7411250 |