中島村(近世)

江戸期~明治22年の村名。石見国美濃【みの】郡のうち。江戸期を通じて浜田藩領。庄屋は藤井家。検地は万治元年。村高は「石見国高郷村帳」に208石余,「天保郷帳」に278石余。安永6年「村明細帳」の家数110・人口500,田18町余(うち悪田4町余)・畑49町余。河原・中島・中瀬・古川・池ノ川・桑原河原の小地名がある。慶長4年以降水害が多く,天保7年の大洪水では泥海となる。安永~天明期の田村・右田氏による開発が注目されるが,新川床の開発が大きな課題となる。高津川の河岸,北の大塚海岸は益田七浦の1つで,中島港は藩の年貢米の積出し,紙類の積出港,問屋大仲屋田中氏は回船業で北前航路に就航している。高津川を堺にして津和野藩高津村と再三浦境論争が起こっている。明治8年下吉田村を編入。同9年島根県に所属。同22年に美濃郡吉田村の大字となる。同年187戸・870人。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7413090 |