阿賀郡

豊臣政権による天正10年代を通じての中国国分けは,一般には高梁川以西を毛利氏領,高梁川以東を宇喜多氏領とすることで確定したといわれるが,以東にあたる当郡などは毛利氏の支配下にあったと推定されている(県史6)。しかし,慶長5年関ケ原の戦で毛利氏・宇喜多氏ともに西軍に組して減封・改易となり,かわって小堀正次が勝利者徳川氏の備中国奉行として上房郡松山城へ入城,その支配下に入った。同9年正次の急死により子の政一(遠州)がその職を継いだが,元和3年河内国奉行へ転じ,備中の国奉行支配体制が終了した。それに伴い,同年因幡国鳥取から池田長幸が6万5,000石をもって松山に入り,当郡の全域は同藩領に割かれた。池田氏は寛永18年改易となり成羽の水谷氏が松山に入るが,当郡はそのまま松山藩領にあてられた。寛永古図では松山藩領として26か村が記され,総高1万5,806石余,うち5か村が5か寺計65石との相給になっている。水谷氏は勝宗が勝能を,勝能が勝睦を分知し,この2旗本水谷氏は小阪部村と同村枝村小南村に陣屋を置いた。本家水谷氏は元禄6年無嗣子改易となり,前藩主弟へ川上郡内3,000石が与えられて家名は残した。水谷氏改易に伴い,同7年幕命により播磨姫路藩本多氏が旧松山藩領への検地を実施し,小堀正次の慶長検地にあたる古検高1万3,757石余,水谷氏の検地による中検高2万3,408石余に対し3万4,071石余の新検地高を確定する苛酷なものであった(神郷町史)。この新検高をもとに,郡内は幕府領・松山藩領・旗本水谷氏領,および元禄10年新しく立藩された新見藩領に分割された。「元禄郷帳」によると村数33・高3万2,531石余,うち幕府領11か村・松山藩領8か村・新見藩領12か村・旗本領2か村となっている。以来ほぼこの支配で推移するが,松山藩主石川氏が延享元年伊勢亀山転封後も1万石を飛地として備中内に確保し,その一部が当郡内にもあった。また,松山藩は明治2年維新政府によって減封され,当郡内の松山藩領は収公された。村数・石高は「天保郷帳」34か村・3万3,161石余,「旧高旧領」48か村・3万3,232石余。当郡の主要な物資輸送手段は高梁川の高瀬舟で,松山藩主水谷氏によって船路開発と整備がなされた。水谷氏のねらいは当郡や哲多郡の年貢米輸送を低廉かつ迅速に行うことにあり,正保元年松山~井高間,正保3年井高~川之瀬間,承応元年川之瀬~新見間が開発された。ただ,国奉行小堀氏時代の慶長年間,当郡などから出された鉄の集散地として井高が当てられ高瀬舟で運ばれていることから,すでに松山~井高間の船路は開発されており,水谷氏の工事は修復工事であったと考えられる。高瀬舟での輸送にあたっては,上流からの積荷は必ず松山で松山河岸船に積みかえ松山から下流域の権利を独占する継船制が早くから採られていた。これに対して新見藩は,宝暦4年新見河船に番号を付け番号順に荷を運ばせる番船制を採用したが,松山河岸・新見河岸・松山藩から故障を申し立てられ,天明3年廃止された。当郡の中心は高梁川最上流河岸で城下でもある新見で,陸路も,松山と新見を結ぶ新見往来,成羽から銅山経営および弁柄生産地の吹屋を経て新見を結ぶ吹屋往来が幹線路であった。また,新見から高梁川最上流域沿いに北上し,明地峠越えで伯耆根雨に出て出雲往来と合流する経路もあった。当郡は鉄の産地で扇谷山・鋳長山・安明地の鉄山があり,実村・井原村・花見村には大規模な鉄山師がいた。彼らは鉄山を経営すると同時に伯耆国の鉄荷を山陽方面へ販売する仲買人でもあった。また,たたらと呼ばれる日本古来の製鉄法の原料となる砂鉄を採取する鉄穴場も開かれていた。砂鉄は母岩を水路へ流して採取したため河川の濁水問題を起こし,上流域の産地と用水を利用する下流の村々との対立を招いた。高梁川では備中浜村一件が知られる。これは弘化2年正月江戸出訴後1年4か月かけて和解した濁水問題で,その際鉄穴場数の限定や増設禁止などが取決められ,当郡関係では実村ほか4か村の鉄穴場数31と定められている。明治4年の廃藩置県により倉敷県・亀山県・新見県に分かれ,同年深津県,同5年小田県を経て,同8年岡山県に所属。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7414408 |





