打穴荘(中世)

南北朝期~戦国期に見える荘園名。久米郡のうち。南北朝期には保名でも見える。建武5年正月16日の足利尊氏袖判下文写(小早川家文書)によると,小早川景宗の勲功を賞して「美作国打穴庄内上下村」などが宛行われており,当荘内に上村・下村があったことが分かる。同年2月24日の小早川景宗自筆譲状には当荘内上村・下村(除万福丸・高元分)が祐景の嫡子重景に譲られ,また別の同年月日の同人自筆譲状で「一,美作国打穴庄内弐百貫文地」を祐景次男の万福丸に譲っており,当荘内上村・下村は重景知行分と万福丸知行分に分かれていた(同前)。貞治2年6月29日の小早川重景自筆譲状(小早川家文書1/大日古)では,息男重宗に譲られた所領の1つとして「美作国打穴庄」が見えるが,戦国期に作成されたと推定される竹原小早川家系図(小早川家文書2/大日古)では,重宗への貞治2年6月29日の譲与分として「美作国打穴庄内上下村」とあり,この頃から単独相続に変わっていったものと推定される。以降室町期には小早川氏の譲状に多出し,応永5年5月13日の小早川仲義自筆譲状と,同7年2月9日の小早川仲好(仲義)自筆譲状では弘景に,同34年11月10日の小早川弘景自筆譲状と正長2年7月20日の小早川陽満(弘景)自筆譲状では盛景に,宝徳2年正月29日の小早川盛景自筆譲状では弘景に譲られている(小早川家文書1/大日古)。なお,永和元年11月16日の後円融天皇綸旨案(東寺百合文書京)には「法勝寺領……美作国吉野保・打穴保等大嘗会米事」とあり,起請符地であることにより大嘗会米が免除されており,当地の領家職は法勝寺が持っていたものと推定される。下って「蔭涼軒日録」長禄2年6月9日条(続大成)に「崇寿院領作州打穴庄事」とあり,また長享3年5月12日条には「自崇寿院以侍衣貞友竹,作州打穴庄事,有望者,雖然以前取補任之仁体有之由有物語」とあることから,領家職は崇寿院に伝えられ,請代官による支配がなされていたことが分かる。弘治3年5月14日の美作国献上記(美作古簡集註解下)には久米北条郡のうちとして「打穴保 鯉弐拾喉 進上 石野是貞」とあるが,同史料は検討を要する。また永禄12年3月26日の年紀を有する誕生寺御影堂建立奉加帳写(誕生寺文書/県古文書集4)には「打穴庄衆」とある。江戸初期「作陽誌」に上打穴村・下打穴村が見えるが,これが打穴荘上村・打穴荘下村にあたるとも推定されるが未詳。荘域は現在の中央町打穴下・打穴中・打穴西・打穴里・打穴北・打穴上などの地域と推定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7414898 |