岡山(近世)

江戸期の城下町名。備前国御野郡・上道郡のうち。岡山藩の城下町。天正元年,宇喜多直家は石山城に移り城下町建設に着手。続いて文禄~慶長年間直家の子秀家が,洪水防止と防備のため旭川の河道を付け替え,豊臣秀吉の指図によったというが,岡山へ本丸を移して規模を拡大した岡山城を築き,領内の豪商・職人を集めて城下町経営に乗り出した。その際,従来の山陽道を宍甘鼻から南西へ曲げ,旭川左岸の上道郡森下町で城下へ取り込み,旭川の中州に京橋・中橋・小橋を架けて右岸御津郡の城下中心部を通した。また商人の家作について,新町はもちろん,どの屋敷でも悪き家の取り壊しを許し,二階屋の建築を命じ,さらに侍屋敷の天瀬へ町民が混住することを禁止するなど(黄薇古簡集),計画的町づくりを実施した。秀家時代の城下は,城郭を中心に内堀・中堀の郭内と,北は現在の石関町・天神町・表町,南は天瀬・京橋町・京橋南町の範囲で,内堀のうちと天瀬,旭川を隔てた左岸現後楽園の場所が侍屋敷で,後楽園の場所には小性町があった。そのほかが町人町で,当時の町人町には,町人の出身地にちなむものとして,福岡町(のち上之町・中之町・下之町)が内堀と中堀の間に,郡町(紙屋町)・西大寺町が中堀の南,天瀬との間,児島町が天瀬の南に,片上町(上片上町)・伊部町(下片上町)が旭川左岸山陽道沿いにあった。職人集住にちなむものとしては,北西から西部にかけて,鍛冶屋町(小橋町)・博労町(山崎町・丸亀町)・磨屋町・大工町・桶屋町があり,中堀の外,旭川右岸に魚屋町(川崎町)があった。目標となる建物などにちなむものは,京橋西詰の橋本町,内堀に引水する石関があった旭川右岸沿い石関町,同町の北方,神社にちなむ伊勢宮町(小畑町)があった。このほか,山陽道城下入口の森下町,天瀬南の内田町(上内田町・下内町),のち石関町近くへ移転した出石町(中出石町・下出石町)は,従来の地名にちなむ町名であった。慶長5年小早川秀秋が入封すると,備前・美作の領民を動員して外堀(総堀)を掘り,橋を架け門も設けた。20日間で濠を完成したところから二十日堀と名前がついたという。秀秋はこの外堀の外縁に,蓮昌寺・大雲寺・岡山寺を移し,広大な境内を与えて寺町を形成した。秀秋はわずか数年で改易となり,続く備前監国の時代を経て,元和元年池田忠雄が淡路から備前岡山に移封されると,再び城下拡充が計画された。まず外堀の西側に旭川から引水する西川を開削。内堀の内を内山下,中堀と外堀の間を中山下,外堀と西堀の間を外山下とし,忠雄の兄で若死した前藩主忠継の家臣の多くが引き続き内山下・中山下に居住,淡路から伴った家臣の多くは外山下に居住した。このほか山下町の侍屋敷は淡路町とも呼ばれた。寛永9年池田光仲と光政が交換転封となり,光政が鳥取から入封。光政は城下自体の拡張整備に努め,従来の内山下・中山下・天瀬などのほか,北部,外堀沿いに番町を拡大,外山下に東田町・西田町を,外堀南部の町人地南に船頭町・西川筋などを,旭川左岸に門田屋敷を侍屋敷地として充て,特に内山下には上級藩士,中山下・天瀬には中級藩士を住居させた。続いて外山下および城下に取り込んだ村域に町人町を設けた。これらの町には,当初,二郎三郎町(尾上町)・孫右衛門町(瀬尾町)・七郎右衛門町(小野田町)・喜右衛門町(平野町)・三郎兵衛町(山科町)・意三町(高橋町)・又兵衛町(小原町)・六兵衛町(浜田町)・総二郎町(富田町)・五右衛門町(難波町)・新右衛門町(滝本町)など,開発中心人物などの名がつけられたが,綱政時代の延宝4年頃までには町名変更されていった。また光政は寛永年間因幡から5か寺を移すとともに,入封後に新規に8か寺を建立。そのため寛永の城下絵図では町人町であった博労町の一部の塩見町が移されて,新築の寺院が立ち並ぶ寺町に変わるなどした。また旭川左岸も変わり,中州の西中島町・東中島町は,京橋脇に着船したり,山陽道を往来する船頭・商人・旅人の旅籠町となり,当時中州であった花畑も忠雄時代は藩主別荘得月楼のある庭園であったが,光政時代に仏殿,のち文武教習場が建てられた。このため熊沢蕃山・泉仲愛・中江宜伯その他の藤樹門下儒者,学問執心の浪人が集住するところとなり,一時は学問の町の観を呈した。寛文6年花畠教場は廃止され,次第に武家地化していった。同8年光政の命により,西中山下円乗院跡地および侍屋敷17軒を移した跡地に藩校を設置,綱政は元禄4年天守閣の北にあたる旭川対岸に御茶屋敷,現在の後楽園を完成,藩主の宴遊,藩士の演武の場とした。光政の頃に城下町はほぼ完成し,「吉備温故秘録」によれば町人町は62か町を数える。これら町人町は,初め町役負担を基準にして,ほぼ郭内の商業中心地域からなる内町12か町,中町12か町,その他の外町に分けられたが,町役の変化から地代負担を基準に再編成されることになった。貞享元年の岡山町中御検地畝高地子帳(池田家文庫)によれば,62か町の総畝数63町6反7畝余,地子総計916石余,このうち免除分を引いて換算した徳米875石余・口米17石余。そして地代の重い順に頭町6か町・中町6か町・外町50か町に分けられたが,行政的には上21か町・中20か町・下21か町に分けられ,それぞれ大年寄(総年寄)が置かれて町奉行の支配をうけた。町会所は寛文7年栄町光清寺跡に置かれた。町人の家数・人数は,寛文8年7,414・3万1,850,享保2年8,007・2万7,950,宝暦3年7,904・2万3,496で,以後,家数のほぼ横ばいか微増状態に対して人数は減少傾向をたどり,安政5年7,901・2万92,明治2年8,102・2万670で版籍奉還を迎える。同4年旧武家町も加えて92か町を5区21小区に編成,1~4区は御野郡,5区は上道郡に属す。同11年郡区町村編制法により岡山区となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7415244 |





