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西西条郡


宇喜多氏,小早川氏の支配を経て,慶長8年森忠政が入封した。「美作太平記」によると,忠政入国に反対する浪人一揆が企てられたが,忠政はそれをかわして当郡院庄村に入った。寛文元年津山藩主森長継は当郡を苫西郡と改称したが,森氏が除封された翌年の元禄11年春,幕府は寛文年間以前の郡名に改めた。江戸初期の村数は,神戸郷3・吉原荘3・香々美荘2・大野荘2・野介荘11・富荘28・薪郷6の計55。村数・石高は,「元禄郷帳」51か村・2万6,335石余,「天保郷帳」51か村・2万6,800石余,「旧高旧領」65か村・2万6,804石余うち津山藩領1万8,974石余・幕府領津山藩預所7,829石余。森忠政が入った院庄村は美作国のほぼ中央部にあたり,吉井川に面し津山盆地最大の平地であった。古代の官道と伯耆国穴鴨から倉吉に至る倉吉往来(美伯往来)が交差し,吉井川水運の高瀬舟の河岸もある水陸交通の要衝の地であった。慶長年間初期には200戸ほどの町家があったという。忠政は院庄に本拠を定め,築城を進めたが,「作の州府院庄は四方高くして地塞がる……往来の旅人常にここに宿る」(作陽誌)ため,西北条郡田中郷に藩内の抗争を退け移築した。その後,出雲往来などが整備されるに従い,院庄は宿場町として栄えたが,出雲往来が津山城下町を通るようになった慶安2年以後は津山が繁栄した。東部は津山城下町に隣接し城下に加えられた部分もあり,二宮村の高野神社は津山藩の二宮であった。元禄10年森氏は除封されたが,その家臣の一部には香々美村をはじめ当郡の一部に定住した者もあった。同11年松平氏が美作国10万石に封じられた際当郡の村々はその所領となったが,享保12年山城・黒木・富・奥津・斎原などの村々は幕府領となった。文化9年下原・薪森原・黒木・西屋・奥津の諸村は松平氏の所管となり,同14年5万石加増により山城・大・楠・富仲間・高土生・上森原・馬場・塚谷・入・久田上原・久田下原・河本・貞永寺の村々が松平氏の所領となった。天保9年松平氏は封土の一部を変更したが,当郡の山城・大・楠・富仲間・奥津など城下から遠く離れた村々は幕府領となった。また,この時から幕府領は津山藩預りとなった。明治元年における松平氏の当郡内の所領26か村・預り地32か村。代官所は倉敷(林野)・久世などめまぐるしく変わり,預りでは大坂城代に任ぜられた藩の所管になった場合が多かった。明治4年の廃藩置県により,津山県北条県を経て,同9年岡山県に所属。明治5年区制施行により当郡は第36~39区に分けられ,翌6年第18番会所が院庄村,第19番会所が貞永寺村に設置された。同9年第2番会議所が二宮村,第3番会議所が貞永寺村に置かれ,同10年会議所が廃止され第19区務所とその第1・第2戸長役場が竹田村,第3戸長役場が女原村に設置された。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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