富田荘(中世)

鎌倉期~戦国期に見える荘園名美作国勝田郡のうち富多荘とも書く年月日未詳の「真如堂縁起」によれば,嘉禎4年執権北条泰時が上洛した際,真如堂に対し「美作国富田庄之内藤田里地頭職」を寄進したというなお年月日未詳の某書状(兼仲卿記裏文書/鎌遺12580)に「富多庄法也(ママ)濫妨□(事カ)□大炊御門二位申状等如此」とある下って,嘉元4年6月12日の昭慶門院(憙子内親王)御領目録(竹内文平氏所蔵文書)に,大宮院(藤原姞子)領として,「富多庄〈河辺郷 前左兵衛督親氏卿 御年貢二万疋 弘野高野郷五辻二位宗氏卿 御年貢〉」と記されているさらに,元応元年10月日の大社小比叡社社家注進状写(日吉山王新記所収文書/続群2下)に,日吉社領として,「美作国富多庄〈河辺郷 弘野郷 季節神供并四季大般若料所〉」と記されている下って戦国期になると,永正12年12月日の真如堂領諸国所々目録(真正極楽寺文書)に美作国分として,「藤田村并富田庄之内弘野利国名・新宮・西山・栗尾・算々告田・蓮花寺等」が見え寛喜元年4月に散位藤原朝臣が寄進したものと記す荘域は現在の津山市の東部を流れる加茂川の東岸の近長・河辺・日上,広戸川流域の田熊・福井・新田・西吉田・国分寺あたりのかなり広い地域と推定される当荘のうちに河辺郷・弘野郷・高野郷・綾部郷・藤田村などの諸郷村が含まれていた

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7418021 |