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豊田荘(中世)


 南北朝期~戦国期に見える荘園名。美作国勝田郡のうち。文和2年10月日の光明寺雑掌言上状(紀氏系図裏文書)に「美作国豊田東庄内為広跡田畠并所職等事」と見え,三宅盛久の押妨を訴えている。同言上状には豊田東荘とあり,勘解由小路二位入道寂尹(俗名経尹)の寄進によるものとしているから,すでに鎌倉末期には東西両荘に区分されていたらしい。光明寺領豊田荘については,これ以後の史料がなく未詳。室町期になると京都真如寺領豊田荘が見え,これは豊田西荘とも称されている。永享3年6月24日の御前落居奉書(室町幕府引付史料集成上)によれば,真如寺領但馬高田荘年貢は明日中に究済すべきだが,豊田荘勘定の間,催促を中止すべきとされている。その後,「蔭涼軒日録」長享2年8月21日条(続大成)によれば,「真如寺領作州豊田西庄」の代官職を大館少弼(尚氏)が望み,前年寺家から補佐の内諾を得たものらしい。この代官職について,蔭涼軒の亀泉集証は後藤則季(藤左)を就任させるべく画策し,数年前すでに真如寺との間で一定の話合いがついていたものだった。長享2年10月20日条によれば,この頃後藤則季は正式の代官でもないのに実力で現地の所務を行っている。同年11月21日には大館を補佐する旨の連絡が真如寺からあったが,亀泉はこれに難色を示し,同21日には美作に下向する後藤則季の中間に託して,真如当住黙堂西堂契状・大館左衛門佐上表状案・浦上方下知状案を則季に届けている。この代官職を巡る争いの結末は未詳だが,同書延徳元年11月2日条や同2年3月3日条によれば,結局,後藤則季が現地の所務を行っている様子がうかがえる。その後,明応元年12月17日条によれば,「豊田庄百姓等致緩急(怠カ)」という理由で湯郷衆100人程が当荘に攻め入り,主だった者を討ち果たしたため,所務相違なく年貢を収納できたという。翌明応2年2月には,真如寺から亀泉へ,連輝軒を通じて広戸方へ当荘代官職を申し付けるから納得されたい旨の連絡があり,亀泉はこれに納得せず,連輝軒へ実否を尋ねたりしている(以上蔭涼軒日録/続大成)。「鹿苑日録」明応8年12月28日条によれば,当荘年貢10貫文が届いているが,その際の上使からの連絡によれば,真如寺年貢米は先に24,5石を請取ったが,売却できていないため借銭して運上,10貫文は広戸氏から借銭したものであったという。その後,永正元年2月26日にも「真如寺領豊田年貢事」が問題となっているが,この頃を最後に鹿苑院側の史料に当荘は見えなくなる(以上鹿苑日録)。なお,文亀3年8月13日,伊俊(赤松被官)から小坂太郎左衛門宛に「豊田西庄高畔供僧田」に対する上原九郎左衛門の違乱を停止すべき旨が命じられており,同年8月26日にも則久(赤松被官中村大和守)から小坂将監苑に「豊田西庄社領其畦供仰免」の遵行命令が出されている(美作古簡集註解上)。また,天文8・9年頃と推定される12月23日の浦上家臣連署奉書で江見右衛門太夫に「豊田庄真如寺領之内江見藤左衛門抱分」が,天正2年10月21日には浦上宗景から石川源助に「豊田庄之内本所分」がそれぞれ与えられている(同前)。この間,室町末期から戦国期頃の当地は広峰社(兵庫県)の檀那場であり,文明14年8月10日の檀那村書に「といた庄,いけいひろつミ二郎衛門殿,同宮の神主左衛門,同東のあらせき村といた殿,そしたうれう殿も一えん知行なり」,天文8年12月吉日の檀那引付に「〈とよたの〉しゅりとの」と見え,天文10年2月吉日の檀那村付帳には「東ミまさかの国内豊国(田カ)」の中に「かうゑん村」が,その他豊田の内として,「かきのいちは」「くこ村」「あふらを」「いけい村」「ひろすみ村」「ひろおか村」「久なか村」「ありなか名」などの地名が見える(肥塚家文書)。荘域は旧豊田村,現在の奈義町豊沢・広岡・宮内・柿・成松・久常・是宗あたりに比定される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7418045