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新見荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。備中国英賀郡・哲多郡のうち。耳荘とも見える。承久3年10月29日の官宣旨(東寺百合文書甲号外)に「応令停止兵糧米責……最勝光院領当国新見庄事」とあり,当荘に対する押領を停止するよう備中国に命じている。同年閏10月12日の六波羅御教書(東寺文書御宸翰)では当荘に対して押領を働いていたのが,前下司康仲と同子息頼仲であったことが知られ,両者の身柄を召まいらすよう備中守護所に命じている。なお,当荘は鎌倉中期には最勝光院領となっていたことが確認されるが,寄進された時期は未詳。建武4年6月25日の法印信尊契約状案(東寺百合文書ミ)によれば,当荘は開発領主大中臣孝正が官務家小槻隆職に寄進した後,隆職一国宗―淳方―大蔵卿局―信尊と伝領されたという。小槻家は造東大寺大仏長官を兼務しており,貞応3年5月4日の造東大寺次官某施行状案と同年10月27日の造東大寺次官某奉下文案によれば,当荘の田所名は一向不輸地であるにもかかわらず地頭が麦畠の検注や新儀の地役を課すなど領家との間に紛争が起きていたことが知られ,嘉禄2年2月18日および翌3年8月28日の造東大寺次官某奉下文案では,勧農のときに田所が雇う百姓を地頭が抑留したり地頭が預所得分である在家苧を押領するなどの事例が見える(東寺百合文書ウ)。田所職には在地の有力者である菅野(三善)氏が代々補任されていた。建長7年5月16日の沙弥某新見荘田所職譲状案(東寺百合文書サ)によれば,田所職はこのとき菅野忠重に譲与され,弘安6年12月5日の掃部助顕兼(浄心)新見荘田所職并延房名名主職譲状案で同職は沙弥行覚に与えられた(同前)。その後正和3年3月18日沙弥行覚は同職惣領分を三善時兼に譲り(同前),嘉暦元年10月3日の左衛門尉範世奉書案(東寺百合文書フ)では田所の三善覚証に末広・延藤・真近・恒房の各名が与えられた。貞和2年3月5日の沙弥覚証新見荘田所職惣領分譲状案(東寺百合文書サ)で三善信衡に庶子分を除く同職惣領分が譲与され,応安6年11月15日の備中国新見荘田所職并延房名名主職譲状案(同前)で沙弥道泉から三善小法師丸に同職と延房名名主職が,さらに同30年2月19日の忠継新見荘田所職并延房名名主職譲状案(同前)で両職が大田彦八に譲与されている。文永8年2月28日の新見荘領家方里村正検田取帳案および同年月日の4通の新見荘奥村・里村に対する検田・検畠取帳案によれば,当荘を奥村分と里村分とに分けて作田・作畠に対して別々に検注が行われたことが知られる(東寺百合文書ク)。この検注は直前に行われた地頭・領家間の下地中分を受けて実行されたとする説と,この検注を土台としてこれ以後下地中分が行われたとする説があるが,いずれにせよこの検注は全荘域を対象としており,文永7年12月26日から始まり翌8年2月21日に完了している。文永8年7月日の新見荘惣検作田目録(東寺百合文書シ)によれば,作田の合計は98町9反35代18歩,本田65町7反15代うち定田44町4反15代,出田33町2反20代18歩からなっており,このとき吉野村に対しては米年貢の代わりとして分鉄合計741両2分が課された。また,4通の新見荘地頭方東方田地実検取帳および同東方地頭方山里畠実検取帳によれば,東方地頭方の正検注は正中2年2月22日から始められ同年5月8日の新見荘地頭方田地下地実検名寄帳の作成によって終了した(東寺百合文書ク)。一方,領家方については嘉元3年閏12月25日の大蔵卿局譲状案(東寺百合文書ミ)に「備中のくににヰミのしやうは,ゆつりまいらせ候,このところのもんそハ,のふミつかすめとりて候,かさねてうたヘ申され候て,かヘしとらせ給候ヘく候」と見え,この頃当荘領家職について小槻家内部で紛争が起こっていたことが知られる。この小槻家の内紛は官務職の相伝とも絡んで推移するが,嘉暦2年12月14日の後醍醐天皇綸旨(東寺百合文書甲号外)では「最勝光院領備中国新見庄事,信親越訴被棄捐了」とあり,信親を退けて匡遠に安堵している。しかし,元徳元年10月5日の同天皇綸旨(東寺百合文書ゐ)には,談義料所の播磨国矢野荘例名の替えとして東寺の知行を認めており,翌2年正月28日の同天皇綸旨(東寺百合文書ナ)では周防国美和荘の替えとして当荘は東寺に寄進された。また,地頭職は元弘3年9月1日の同天皇綸旨(東寺百合文書ヒ)で,丹波国大山荘・若狭国太良荘の地頭職とともに東寺に寄進されている。建武2年2月9日の国司入部雑事注文(東寺百合文書ク)によれば,先の寄進を受けて元弘3年12月19日には国司の上御使則宗の一行83名が当荘に入部しており,これに対する当荘の負担は4貫480文であった。建武元年と推定される月日未詳の新見荘東方地頭方損亡検見并納帳によると,同年東寺の代官が下向し,集中豪雨による被害を受けた高瀬村を中心に検見が行われ,同時に同年12月日の新見荘東方地頭方年貢米雑穀代等用途結解状では,当荘地頭方の年貢公事152貫173文が納められている(同前)。建武3年9月8日の光厳上皇院宣(東寺百合文書こ)と同4年2月8日の足利直義施行状案(東寺百合文書ノ)により当荘は東寺に安堵された。これに対し,前述の同4年6月25日の信尊契約状案によると,かつて後宇多上皇から認められた当荘領家職を失って現地に下向していた信尊は同職の安堵を要求し,容れられないときには当荘の西方半分を下地中分して新見九郎(貞直)に避進し,新見荘の協力を受けると訴えている。これに対して東寺は暦応3年2月15日の権少僧都深源奉書案(東寺百合文書ミ)で妥協案として利真・永貞・則行の3名と浮田1町・仏事田4反・桂田4反を信尊に与え協力を依頼している。以降も領家職についての東寺と小槻氏との相論は南北朝末年に至るまで続けられるが,この間貞和6年2月11日の光厳上皇院宣案,観応元年3月8日と同年5月24日の室町幕府引付頭人奉書案(以上東寺百合文書ゐ),延文元年9月4日の室町幕府引付頭人細川清氏奉書(東寺百合文書せ)などによると,新見氏は依然として当荘領家方への違乱を続けていた。しかし「太平記」に,当荘に隣接する丹部(多治部)郷の多治部師景が康安2年6月美作国院庄に入部した山名時氏の侍大将として当地に進出し新見氏の勢力を一掃して当地に居座ったとあり(古典大系),貞治3年8月日の東寺雑掌申状(東寺百合文書ホ)で多治部師景の下地押領が訴えられているのを始めとして,これ以後南北朝期を通じて多治部氏の押領が続いた。前述の東寺と小槻氏との相論は,明徳元年の「最勝光院方評定引付」所引の同年11月3日の小槻兼治新見荘領家職契状写(東寺百合文書る)によると,東寺が当荘からの年貢・雑物の7分の1を小槻家に納入することを条件として小槻家が東寺の領家職所有を認め,小槻家は相伝文書のすべてを東寺に寄付してのちの競望を断った。これを受けた東寺は,同引付所引の同年11月日の同荘公文惣追捕使両職補任状写および田所職補任状写で,公文・惣追捕使職に楢崎備前守子息鶴寿丸,田所職に三善義広を補任している(同前)。また,翌2年の同引付4月7日・5月23日条などによると,新見入道道存が幕府寺奉行飯尾善左衛門大夫の口入により三職のうち1職の補任を要求したが容れられず,代わりとして以前信尊に契約した別納の3名などが道存一期の間という条件で譲られた(同前)。当時は依然として多治部氏による押領が続けられている状態であったため,応永元年の「最勝光院方評定引付」2月28日条(同前)には「一,当年所務事新見入道可下代官云々」とあり,東寺は細川氏の被官でもある新見清直は所務得分5分の1の約束で当荘所務を契約している。応永5年4月30日の新見荘百姓等申状(阿刀文書/大日料7‐3)では,当荘西方百姓らが同年は魃・大風・洪水が続き大不作であったため損免を要求している。また,代官新見氏の連年の未進のため,同8年5月3日の新見荘領家方所務職補任状案(東寺百合文書さ)などによると,毎年60貫文の請切りを条件に山伏の岩生(岩奈須)宣深が同職に補任されたが,また未進により改易され,現地では新見清直の被官垪和為清や守護細川氏の被官安富宝城などが代官職の競望を続けた。なかでも安富氏が有力で何度か代官職請文が出されており,特に同27年3月日の安富宝城新見荘代官職請文案(東寺百合文書ツ)では公用年貢120貫文を請け切り,「当庄御百性等,依誅罰之欝憤,令逃散之由」と強力な代官支配を展開していた。また,同34年の「最勝光院方評定引付」の卯月25日条(東寺百合文書る)によれば「一,新見庄百姓上洛仕,捧訴状」とあり,安富宝城と百姓との間で所務について摩擦が生じていた。永享元年頃には安富智安が宝城から代官職を受け継ぎ毎年150貫文で請け負っていたが,寛正2年8月日の新見荘代官安富智安未進年貢注文案(東寺百合文書サ)によれば,嘉吉元年頃から未進が目立ち,寛正元年までの未進合計は2,201貫文に達している。安富氏は細川氏の家臣として京都に居り,現地には又代官として大橋氏を下して支配に当たっていたが,当荘支配が苛酷なものであったのに加えて,長禄3年頃から近畿地方を中心として天候異変が起こり,当荘周辺の窮状は寛正2年に至っても終息しなかった。同年と推定される7月26日の新見荘百姓等申状によれば,名主百姓は前年から安富智安の罷免と直務代官の派遣を,また同年8月22日到来の端裏書を有する年月日未詳の新見荘名主百姓等申状并連署起請文(同前)では名主百姓41名の連署により安富智安の罷免を東寺に要求している(東寺百合文書え)。同年と推定される8月16日の新見荘三職連署注進状(同前)および同じく8月16日の新見荘国衙百姓等書状(東寺百合文書ツ)によれば,公文宮田家高・惣追捕使福本盛吉・田所古屋衡氏など,かつて安富氏の被官であった当荘三職を中心としつつ,当荘民と国衙領農民がともに,東寺の直務代官派遣の決定を歓迎する意向を申し送っている。このため東寺は同年8月日の東寺雑掌申状案(東寺百合文書サ)により,智安の非法を訴え,東寺による直務を幕府に要求した。幕府は同年9月2日の2通の室町幕府奉行人連署奉書(東寺百合文書の・ホ)により安富智安の更迭と直務支配を許したため,東寺は早速使者として了蔵を現地に派遣した。寛正2年と推定される10月10日の新見荘使者了蔵書状(東寺百合文書サ)によると,了蔵は9月24日当荘に着き沙汰人・百姓などと対面している。また,上使として祐成・祐深が下されており,同年11月15日の新見荘上使乗観祐成・乗円祐深連署注進状(東寺百合文書え)により,当荘の状況を13か条にわたって詳細に伝えている。それによると,荘域は長さ(南北)7里,横(東西)は1里で総じて山家であり,中央に川が流れ南と西は東寺領,東は地頭方領で,守護所へは15里の位置にある。1里を隔てた多治部という在所に国衙政所がある。また,守護方から管領細川勝元の指示があれば当荘へ打ち入るとの風聞があるが,三職・地下人らの一族が集まれば甲の400~500となろうから,3か国から攻めてこようと当荘は落ちないと自負している。当荘には市場があり,半分は領家方,半分は地頭方であるが,国衙・守護方の商人たちが入り合っているため,仮に弓矢に及ぶときはこの辺からと思われる。また,荘内を一巡するには4日間はかかることなど現地の様子を伝えている。また,同年月日の新見荘両上使并三職連署注進状(東寺百合文書サ)では,もし将軍の下知や管領の口入で前代官の安富と契約を結ぶようなことになれば地下一同他国への逃散をも辞さないことを一味神水により決意していることを申し入れている。三職のうち金子衡氏は安富氏が代官であったときに送りこんだ田所であったが,当荘には以前からの田所である大田忠継がおり,田所職について確執が生じた。寛正3年と推定される正月22日の了蔵書状(東寺百合文書ゆ)によると,直務御礼と田所職補任のために上洛した金子衡氏について現地における指導力を評価しており,寛正3年2月5日の新見荘領家方田所職補任状案(東寺百合文書ロ)により金子氏は正式に田所職に補任された。代官決定が遅引するなか,同年6月20日の新見荘三職連署注進状(東寺百合文書サ)によると「一,卯月廿五日ニ,大れんさいと申候者ふり候て,かま・あしたちと申候村々,麦ことことくそこね候」とあり,当地方は雹害を受けていた。同年の「最勝光院方評定引付」7月16日条(東寺百合文書け)によれば,所務得分は収納の5分の1で当年だけの代官に祐清が補任されることとなった。同年8月24日および同年月25日の新見荘代官祐清注進状によれば,祐清は8月5日当荘に下着し所務に取り組むが,荘民を召寄せて年貢不沙汰の百姓は名田を没収すると宣言するなど強硬な姿勢をとり,東寺に対しては先代官安富の所務帳の送付を依頼し安富同様の所務を自分に命じてほしいと伝えている(東寺百合文書ト)。これに対して同年と推定される8月18日・10月14日・10月19日3通の新見荘高瀬・中奥百姓等申状によると,8月以降の長雨冷夏に加えて8月28日と9月2日の夜には大霜が降り刈入れ前の稲が被害を受けたため,高瀬・中奥各村などへの検見と減免を要求している(東寺百合文書サ)。地頭方並の3分の2免を要求する農民側と3分の1免以上は譲歩しないという祐清側とが対立し,三職をも含み込んだ高瀬・中奥百姓の要求に対して祐清は折檻を加えて年貢を催促する一方,同年と推定される12月13日の新見荘代官祐清書状(東寺百合文書え)などによると,最終的には半免で百姓側に妥協させている。また,祐清は新規に公事蝋や京上人夫役を賦課したほか,同4年と推定される2月22日の新見荘代官祐清注進状(東寺百合文書ツ)では公方様御成段銭反別200文を課し,未進年貢を徴収するため弘安年間の所務帳の年貢額を示して荘民をおどすなど年貢催促は強硬であった。天候不順による飢饉状況を無視し新儀の公事物などを課す代官の催促は荘民の不満を増大させ,同年と推定される8月27日の2通の新見荘三職連署注進状によると,未進を続ける節岡名主豊岡を上意と称して祐清が成敗したことがきっかけとなり,8月25日に豊岡に与同した地頭方百姓の横見・谷内によって祐清は殺害された(東寺百合文書サ・え)。このとき領家方荘民は犯人が逃げ込んだ地頭方の政所屋に放火し焼失させたことから,寛正4年の「最勝光院方評定引付」9月13日条(東寺百合文書け)などによると,地頭方領主である相国寺からその建直しを要求されている。祐清在荘当時身辺の世話にあたっていた惣追捕使福本盛吉の妹たまかきが祐清形見の品の返付を要求している。同年と推定される年月日未詳のたまかき書状并新見荘代官祐清遺品注文(東寺百合文書ゆ)は,中世における農村女性の手紙として有名である。寛正4年の「最勝光院方評定引付」10月18日条(東寺百合文書け)などによると,祐清のあとに当地の代官となったのは播磨国矢野荘(現兵庫県相生市)の田所を兼ねていた本位田家盛で,同年と推定される10月22日の新見荘上使本位田家盛注進状(東寺百合文書サ)では祐清の事後処理の様子を伝えている。同5年7月7日の備中国守護細川勝久奉行人事書案によれば当荘地頭方に御譲位段銭が賦課され,同年と推定される9月21日の新見荘上使本位田家盛并三職連署注進状では,守護使は領家方へも入部し6月25日から7月14日まで滞在し,その費用は7貫600文にも達している(同前)。また,同年と推定される11月12日の備中国守護代石川資次・庄経郷連署触状案と同じく11月24日の新見荘上使本位田家盛注進状によると,安芸国仏通寺の一切経勧進が守護代から申し付けられるなど守護方からの賦課が相次いでいる(同前)。本位田家盛は年貢の徴収が思うにまかせず,同6年の「最勝光院方評定引付」7月18日条(東寺百合文書け)によれば,代官職を召し放たれ,同年7月25日の乗観祐成新見荘領家方代官職条々請文(東寺百合文書サ)で,かつて上使として当荘に下向した祐成が代官職についている。なお,当時の地頭方代官は多治部氏であったが,同6年は当地方一帯は凶作に見舞われ,文正元年と推定される閏2月22日の新見荘代官祐成并三職連署注進状(同前)によると,領家方では田方は3分の1,畠方は半分とし,地頭方では田は半損,畠は4分の1損としたところ地頭方百姓は承引せず逃散したという。戦国期に入り応仁元年と推定される10月16日の新見荘三職連署注進状(東寺百合文書ツ)によれば,同年も6月には日照り,8月には台風,9月には大霜と天候が不順であるに加えて,応仁2年と推定される2月13日の新見荘又代官金子衡氏注進状(東寺百合文書サ)には,国衙領農民が去年7月頃から大寄合を開き国衙領代官大林氏を細川氏の本拠讃岐へ追却したため,代わって安富氏の又代官長町掃部が入部するとの噂が広まり,安富方の入部を阻止するため大寄合を開くなど不隠な状勢であったことを伝えている。同年と推定される6月26日の新見荘三職連署注進状(東寺百合文書ツ)は,当荘から6里南方の穴田に長町備中守が入部したため当荘内が騒然としている状況と,また,守護方からは「国々しやう(城)こしらへ候,人夫出候へ」と諸種の課役を賦課されていた状況を伝えている。また,同年10月19日の室町幕府管領細川勝元奉行人奉書案(東寺百合文書サ)によると,細川氏は東寺が敵方に同意したとして当荘を幕府料所とし寺町又三郎をその代官とした。このような状勢に対して当荘では,応仁2年と推定される11月12日の新見荘三職申状(同前)で「百性等計会仕候,たとへ五年・三年なりとも他国仕候て,請付申ましく候と,我ら三人御百性等申定候」として守護の命には従わないことを申し合わせた。文明元年と推定される9月23日の新見荘三職注進状(同前)では,同月21日に「おく里村おとこかす一人も不残罷出候て,御八幡にて大よりあい仕候て,東寺より外ハ地頭こもち申ましく候と,大かねおつき,土一きお引ならし候間」と,江原八幡宮境内に参集し守護方の入部を阻止するため土一揆の気勢をあげた。また,文明3年と推定される閏8月18日の新見荘田所金子衡氏注進状(同前)によると,当地は幕府政所執事伊勢氏の給地となり,多治部氏が代官となった。多治部氏は三職のうち宮田・福本と金子氏の腹心である長田氏を懐柔したため今まで代官入部の一揆を指導していた金子氏は孤立させられる一方で,荘民は「六月廿日ニ里村百性中寄合お仕候て,はや東寺之事ハ御かないもなけに候」として東寺を支持する金子氏から離れ,同年7月19日には多治部雅楽次郎の荘内入部を迎えた。その後当荘は同10年6月9日の室町幕府奉行人連署奉書(東寺百合文書ツ)で東寺に返付されるが,同年と推定される閏9月8日の新見荘三職連署申状(東寺百合文書サ)などによると,前代官多治部氏は在地を退かず強力な年貢徴収を行い,翌11年と推定される5月2日の足立左衛門四郎書状(東寺百合文書え)によると,当荘三職と中奥の百姓は多治部氏の支配下にある状態だった。これに対して同年閏9月20日の松田備前守新見荘領家方年貢銭請人請文および翌21日の山田具忠新見荘領家方代官職請文によると,幕府奉行人松田数秀を請人として山田具忠が京進120貫文の請切で代官職に補任された(東寺百合文書ホ)。しかし,同年と推定される11月5日の新見荘惣追捕使福本盛吉・公文宮田家高連署注進状(東寺百合文書さ)によれば,荘民はこの契約に反対し天竺上野介による代官請を望んでいた。また,依然として多治部氏の違乱が止まず,山田氏からの依頼を受けた幕府は同年12月3日の9通の室町幕府奉行人連署奉書案(同前)で天竺上野介をはじめとして楢崎備中守・新見三部左衛門尉などの周辺の国人に対して多治部備中守の当荘への違乱を止めるよう命じている。同14年と推定される12月22日の山田具忠書状(同前)によると国衙方の混乱が収まらず,前月28日には荘内大田郷が放火されたという。延徳3年と推定される11月28日の細川政元書状案(東寺百合文書あ)によると,東寺領として還補されて以後の当荘代官職は,実質的には多治部氏と国衙代官秋庭氏との争奪状態にあることから,多治部氏の放券状を作製してくれるよう将軍側近の葉室光房に依頼しており,延徳3年と推定される12月3日の某書状(東寺百合文書ゆ)では,東寺が契約した妹尾氏の又代官として11月28日には秋庭氏が当荘に入部した。一方,明応元年には細川勝久が国人庄元資を破る「備中合戦」が起こり,庄氏を頼っていた多治部氏は打撃を受けた。明応2年と推定される正月11日の某書状(同前)によれば,この間の11月27日に秋庭氏は又代官大和守明重を入部させるが,多治部弥次郎・太田越中守らが秋庭方に年貢を納めないよう地下に触れまわったとある。また,同3年頃と推定される卯月3日の大和守明重書状(東寺百合文書サ)によると,秋庭氏は敵方の侵入に備えて当荘西方に城を築くが代官としての年貢徴収は思うに任せず,同5年と推定される7月21日大和守明重書状(同前)では惣追捕使福本の私宅でもある政所屋が焼け落ちるなど混乱が続いた。なお,同7年12月27日の備中国新見荘本役銭等請取状案(教王護国寺文書7)に「納 耳庄本役銭之事」とあるのは当荘のことと考えられる。同10年2月20日の新見国経新見荘領家代官職条々請文(同前)で新見氏が公用年貢100貫文などで代官職を請け負い,これは文亀元年と推定される10月28日の福本盛吉書状(東寺百合文書ニ)によると,「我ら不存如在,新見殿江致奉公候」と荘民方からも歓迎されているようであるが,前代官秋庭氏の在地違乱も止んでおらず,代官職請負いは円満に行われたとは思われない。新見国経は細川政賢の口入により代官職に就くが,永正2年12月13日の新見国経書状(東寺百合文書い)などによると,自分は在京して現地での支配は弟の政直などにゆだねていた。しかし,同12年と推定される12月13日の新見国経書状(東寺百合文書ゆ)によれば,8月と9月に細川政賢の死により後ろ盾をなくした新見氏を備中国守護代庄元資・三村宗親らが攻めたことにより当荘も戦場となるが,荘民の多くは新見氏に従っている。同14年と推定される11月1日の新見国経書状(東寺百合文書ヤ)によると,新見氏は当時伯耆から備中・美作に進出していた尼子氏の被官となって三村氏に備えている。国経による代官請けは天文11年まで続き,その間少額ではあるが年貢は納入されている。同年の「最勝光院方評定引付」の12月20日条(東寺百合文書る)によると代官職は国経から弟の貞経に譲られるが,同14年12月日の壬生家新見荘本役銭請取(東寺百合文書ゆ)などから壬生家本役も同代官により納入されていたことが分かる。天文年間は尼子方の庄氏が松山城に拠り備中半国を領し,また,三村氏は鳶ケ巣城の多治部氏を攻略して同城に依るという情勢の中で,当荘内杠城の新見氏は永禄9年に尼子が毛利に攻略されたことにより,拠点を失い荘内から退出している。なお,永禄元年6月23日の新見貞経所領譲状(竹田家文書)に「備中国新見庄地頭職・同領家職并曽尒分・岡分・八田分」とあり,藤原大夫丸に譲られている。元亀元年の「最勝光院方評定引付」と天正2年の同引付7月10日条によると,三村氏が当荘代官となっているが(東寺百合文書る),同氏の拠った杠城も同3年に毛利氏から攻められ,これ以後当荘名は東寺関係文書の中から姿を消す。一方,同8年と推定される9月8日の吉川元春書状写(萩藩閥閲録)では,美作国沖構に進出した宇喜多勢への対抗上吉川元春は草苅太郎左衛門尉に対して安芸・石見の衆を催して当地に向かうよう命じており,同年と推定される9月8日の吉川元春書状写(同前)に「頃漸新見・高田之間,可為御着陳候」とあり,毛利輝元が当地付近に着陣したことが知られる。なお,戦国期に成立したと推定される年月日未詳の吉備津宮流鏑馬料足納帳(吉備津神社文書)には康正2年分として「一所 七貫文 いしか 直納 路銭三百文」「一所 弐貫五百文〈にいミ〉新見 直納 路銭三百文」とあり,吉備津宮の社役を務めている。荘域は,現在の新見市金谷付近を南限とした高梁川沿いの北半分と,神郷町北部の高瀬付近を含む地域に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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