万寿荘(中世)

平安末期~室町期に見える荘園名。備中国窪屋郡のうち。養和元年12月8日の後白河院庁下文案(新熊野神社文書/平遺4013)に,「可永停止当社領諸国庄園弐拾捌箇所,充課 勅事・院事・役夫工・大嘗会・斎宮郡(群)行公卿勅使・宇佐使・鰚乳牛役・造内裏雑事及臨時国役事……備中国 万寿本庄 同東庄 同西庄」とあるのが初見で,新熊野神社領として当荘は本荘・東荘・西荘の3か荘に分かれており,勅事・院事など一国平均役の免除が認められていたことが分かる。新熊野神社は,永暦元年後白河院の発願により建立されたものであり,当荘の立荘時期は平安末期と推定される。「平家物語」巻8,「源平盛衰記」巻33によれば,寿永2年平家を討つため西国に下った木曽義仲が妹尾兼康を誅した後,当荘に陣取り,平氏のいる四国の屋島を攻めようとしたことが知られる。寛元3年10月の賀陽某譲状(吉備津神社文書)の追筆に,「万寿東庄吉正名之内新給五段〈壱貫五百文定〉」とあり,吉備津神社の神主某が孫あこ御前に,万寿東荘吉正名内の5反を譲与している。下って正安3年2月の沙弥順阿譲状(同前)にも,「一,万寿東庄吉正名之内新給五段〈弐貫五百文〉」とあり,順阿が早世した子息貞継の子鶴松丸を嫡子として,所領や屋敷などを譲っている中に万寿東荘吉正名内の5反も含まれていた。なお当荘には刀匠がおり,鎌倉末期の延慶の年紀のある太刀銘に「万寿荘住新左衛門尉真長」,嘉元2年の年紀のある同銘に「備中国万寿荘住左衛門尉秀次」などと見え(日本刀剣全史4),また「古刀史年表」にも「備中国万寿庄住左兵衛尉恒次 元徳二年十月日」とする太刀銘や「備中州□(万)寿本庄住延次作 元弘三 二月十一日」とする短刀銘を載せている。貞和2年閏9月日の新熊野長床雑掌勝慶言上状(古文書集2)によれば,備中守護南宗継の代官赤見時基が松本種門ら数多くの悪党を率いて,8月25日に「万寿本庄」に乱入し,荘内の名主百姓の住宅から灯油仏聖以下神用米銭・資財・雑具などを押取したことを新熊野雑掌が幕府へ訴えている。明徳3年と推定される11月21日の足利義満御内書案(若王子神社文書)には,「備州万寿三ケ庄下司以下事,停止近江三郎押妨,可遂行六月会等神事由,可有御下知社家候」とあり,将軍義満から常住院道意に対して,近江三郎の押妨を停止させることが伝えられている。この若王子神社も後白河院の発願によって院政期に建立された神社で,「禅林寺新熊野社」とも呼ばれている。新熊野神社が当荘の本家職を保有していたのに対し,若王子神社は下司職以下の諸職を持っていたと考えられる。応永12年9月5日の室町幕府管領斯波頼重施行状(同前/大日料7‐7)によれば,「新熊野領備中国万寿三ケ庄職并名々等」に対する諸公事・段銭の賦課を応永2年5月26日の義満の御内書に任せて,停止する旨を備中国守護細川満之に命じている。応永18年7月8日の足利義持御判御教書(同前/大日料7‐14)は,「万寿三ケ庄」を守護使不入の地として社家一円の所領として安堵している。永享元年12月2日書写の奥書を有する備中国惣社宮造営帳写(池上家文書)によれば,同年11月29日の随兵役として「万寿庄呆(ホ)ウラ 次郎左衛門」など10騎が従っていた。「康正二年造内裏段銭并国役引付」(群書28)によれば,同年の6月4日に新熊野社領として聖護院殿(道意)から10貫文が納入されている。永禄元年6月23日の新見貞経所領譲状(竹田家文書)では,「万寿庄下司并権田所職」などが藤原大夫丸に譲与されている。なお,戦国期~織豊期にかけて東庄・西庄が見えるが,これは万寿東荘・万寿西荘あるいは子位東荘・子位西荘が省略されたものと推定される。東庄については,大永6年12月13日の備中国吉備津宮領坪付注文(吉備津神社文書)の追筆に,「一所五段東庄之内」とあって,1反が中田十郎左衛門,2反が上村ノ与一兵衛,1反が上村ノ源七,1反が上村ノ孫三郎とされており,計1貫500文の在所であった。永禄11年と推定される9月20日の小早川隆景書状写(萩藩閥閲録1)に,「於備中東庄之内百貫之地,先以進置候」と見え,村上景親に当地内の100貫を宛行っている。端裏書に永禄年中と書かれた年月日未詳の御神事次第記録(吉備津神社文書/県古文書集2)に,「東庄之まんだら寺」が見える。また,年未詳10月20日の井上春忠書状写(黄薇古簡集)にも,「山南之衆中をハ東庄被打出」と見える。一方西庄については,2通の文禄3年9月16日の宇喜多秀家黒印状(弘法寺文書/県古文書集3,備前一宮社家大守家文書/県古文書集4)に,「於備中国窪屋郡西庄之内,三拾石之事,令寄進者也」と見え,千手山弘法寺・備前一宮の吉備津神社各々に西庄内30石ずつが寄進されている。同4年12月吉日の宇喜多秀家黒印状写(中山神社文書/県古文書集3)および同年月日の同黒印状(安養寺文書/県古文書集1)によれば,宇喜多秀家が,長船紀伊守の所領美作一宮の10石を美作一宮へ,花房志摩守の所領備前国和気郡日笠の15石を市倉山寺へ,それぞれ差し出させ,その替地として当地内の10石・15石を各々に宛行っている。また,同年月日の宇喜多秀家黒印状写(黄薇古簡集)でも同様に,延原弥吉・尾板市兵衛の所領備前国和気郡田土内の20石を杉沢山長楽寺へ差し出させ,その替地として当地内の20石を宛行っている。現在の倉敷市浜ノ茶屋を中心とした一帯に比定されるが,現倉敷市中庄・下庄なども当荘の一部とする説がある。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7419535 |





