美作国

豊臣政権と毛利氏による中国国分けの過程で,美作一国は宇喜多秀家の領国として確定された。その後,秀家は豊臣秀吉から身内の如く遇されて政権の中枢に位置づけられ,天正13年の紀州および四国,同15年の九州など豊臣政権の重要な戦いには必ず参陣し,朝鮮侵略においても主力を形成,渡海した。これらの過重な軍役負担は領国の荒田化を進め,たび重なる参陣や京都・大坂での生活などは秀家個人の主導権を領国政治に発揮させることなく推移させたと考えられる。その中で,重臣層間の対立が表面化し,秀家はこの家中騒動を止揚する間も無く慶長5年関ケ原の戦に突入,敗戦ののち薩摩へ身を隠したが,のち八丈島に配流された。宇喜多氏断絶により当国は徳川家康の戦後処理で小早川秀秋に与えられ,秀秋は英田郡倉敷城へ稲葉通政,真島郡高田城へ服部隠岐守らを入れて統治させた。しかし,小早川氏も同7年秀秋が死去し子がいなかったため改易されるが,秀秋の手によって国内7郡が12郡に改編されたと伝える。小早川氏の跡は信濃川中島城主森忠政が美作一国を与えられ,同8年3月に入封した。忠政は鶴山を城地として選定,新城を築いて津山と命名し城下町を建設し,領内総検地を行うなど領国支配を着々と進めた。森氏による津山藩の立藩により,当国は宇喜多氏・小早川氏時代と異なり備前国と袂を分かつ独自の歩みを始めた。森氏が拝領した美作一国の朱印高は18万6,500石で,当初は英田・吉野・大庭・真島・勝南・勝北・東北条・東南条・西北条・西西条・久米南条・久米北条の12郡制を継承した。寛文元年郡名を改称,勝南郡を勝田南郡,勝北郡を勝田北郡,東北条郡を苫北郡,東南条郡を苫東郡,西北条郡を苫南郡,西西条郡を苫西郡,久米南条郡を久米南郡,久米北条郡を久米北郡とし,天和2年幕府の命により10郡制へ改編,久米南郡と久米北郡を合わせて久米郡,勝田南郡と勝田北郡を合わせて勝田郡とした。ただし,実際には久米郡南分・同北分,勝田郡南分・同北分の呼称が使われた。森氏は,元禄10年藩主長成の死去や末期養子となった衆利の参府途上での発病により断絶となるが,入国以来新田開発が進行し,また改め出しもあり,「元禄郷帳」では総高25万9,353石余となる。森氏断絶の翌11年,幕府は実情に即して寛文年間以前の12郡制に戻しており,「元禄郷帳」による各郡の村数・石高は,東南条郡14・1万654石余,東北条郡32・1万5,120石余,西北条郡24・1万487石余,西西条郡51・2万6,335石余,大庭郡47・2万351石余,真島郡95・3万2,943石余,久米北条郡33・2万8,777石余,勝南郡68・2万4,495石余,勝北郡53・3万3,965石余,英田郡64・1万3,505石余,吉野郡58・1万9,937石余。以後ほぼこの数値で推移し,「天保郷帳」による村数・石高は,東南条郡14か村・1万838石余,東北条郡32か村・1万5,411石余,西北条郡23か村・1万765石余,西西条郡51か村・2万6,800石余,大庭郡47か村・2万836石余,真島郡96か村・3万3,194石余,久米北条郡50か村・2万8,870石余,久米南条郡60か村・2万2,982石余,勝南郡70か村・2万4,654石余,勝北郡57か村・3万4,139石余,英田郡64か村・1万3,659石余,吉野郡64か村・1万9,946石余となっている。支配は,元禄11年もと越後高田藩松平光長の養子長矩が10万石をもって津山に入り津山藩は存続し,長矩も国主に準じる待遇を受けるが,森氏の改易により一国一藩支配は終わりを告げた。松平津山藩領10万石は津山城下近郊の東南条・東北条・西北条・西西条・大庭5郡一円と真島・久米北条・久米南条・勝南4郡の各一部から構成されたが,享保11年2代目浅五郎の若死により,断絶は免がれたものの,勝南・東南条・東北条・西北条・西西条・久米南条6郡内5万石に削減された。松平氏は,元禄11年の入封当時に幕府領並みへの年貢率引下げや先例遵守を要求する高倉騒動に見舞われた。また,享保11年にも幕領化に伴う先納年貢の返遷などを要求する山中一揆に襲われ,同一揆は翌12年にかけて激しい打毀を伴いながら全藩域へ拡大した。文化14年津山藩は将軍家斉の子斉民を養子に迎えて5万石の加増を受け,のち天保9年幕府領との領知交換を許可され,加増5万石分は勝南郡内35か村・久米南条郡内2か村・東北条郡内1か村・西西条郡内10か村・勝北郡内6か村・英田郡内3か村・吉野郡内7か村・久米北条郡内9か村・大庭郡内20か村および讃岐小豆島内6か村に固定した。元禄11年津山藩領とならず幕府に収公された村々は,その後相給化はさほど見受けられないものの,甲斐甲府藩徳川綱豊領や大坂城代などの要職に就いた者の替地に割かれるなど激しい支配の変遷を経験し,江戸後期になると,藩領としての定着や津山藩など大名による幕府領預りが顕著となっていた。なお,津山藩のほか明和元年には三河西尾の三浦明次が真島・大庭両郡内2万3,000石へ移され,真島郡高田旧域を勝山と改命して勝山藩を立藩した。また,慶応3年から明治元年にかけて第2次長州戦争で居城を失った石見浜田藩主松平氏が,真島郡内の飛地と旧幕府領播磨竜野藩預所を与えられて鶴田【たずた】藩を立藩している。なお「旧高旧領」による村数・石高は,東北条郡40か村・1万5,411石余,大庭郡59か村・2万836石余,吉野郡73か村・1万9,954石余,勝北郡89か村・3万4,139石余,英田郡65か村・1万3,662石余,西西条郡65か村・2万6,804石余,真島郡112か村・3万3,225石余,勝南郡79か村・2万4,657石余,久米北条郡60か村・2万8,871石余,東南条郡22か村・1万838石余,久米南条郡72か村・2万2,988石余,西北条郡34か村・1万766石余の計26万2,156石余で,うち津山藩領9万8,588石余・真島(勝山)藩領3万840石余・鶴田藩領および旧播磨竜野藩預所3万6,189石余・三河挙母藩領5,056石余・下総古河藩領1万749石余・常陸土浦藩領8,618石余・播磨明石藩領9,857石余・上野沼田藩領1万4,117石余・播磨竜野藩領2,461石余,残る4万5,600石ほどが幕府領であった。道は出雲往来が幹線で,出雲松江藩が参勤交代路として使用し,津山藩・勝山藩も通行した。松江藩は通信機関として七里飛脚を持っていたが,その飛脚継所を出雲往来に設置していた。当国内には出雲往来の宿駅として土居・勝間田・津山・坪井・久世・勝山・美甘【みかも】・新庄が置かれたが,同往来が津山城下を通るように付け替えられたのは慶安元年のことで,それまでは吉井川右岸の押淵―種―佐良―宮尾を通っていた。また,土居が宿駅とされたのは慶長9年のことで,北の室生坂越えから万能峠越えへ道筋が変更されたためという。国内をほぼ東西に走る出雲往来からは南北へ道が分かれ,山陰と山陽を短路で結んだ。その1つは因幡往来で,志戸坂峠越えで当国に入り,坂根~大原と進んで播磨国佐用で出雲往来に合流した。因幡往来には辻堂・古町・坂根の3宿があり,因幡鳥取藩の参勤交代路であった。また,勝間田からは南へ倉敷を経て岡山へ至る倉敷往来が,津山からは南へ岡山に至る津山往来,北へ香々美中―奥津―上斎原と進む伯耆往来など,久世からは北へ釘貫小川―藤森―上徳山と進む大山往来,南へ落合往来などが通っていた。これらの道は人だけでなく物資を運搬する重要な流通路で,山陰の鉄・木綿など,山陽の煙草・菜種・塩などが行き来した。陸路以上に重要なのが河川で,江戸期以前に吉井川筋では綾部より下流,旭川筋では勝山より下流の船路が出来ており,それを上流へのばして年貢米などの円滑な輸送が図られる必要があった。万治年間には箱村までの吉井川の船路が開発され,同川支流香々美川では元禄14年香々美中村までが開発されている。各河川沿いにはいくつかの河岸が開かれ,物資集散地としてにぎわった。物産は,中国山地の山中地域の煙草,英田郡南部の茶,津山城下近郊の野菜,勝北・勝南・真島・大庭各郡の紙などが知られる。一大産業は吉井川上流域と旭川上流域で行われた鉄山業で,津山藩・勝山藩ともに経営に乗り出したが,中心は鉄山師で太田氏などの大規模な鉄山師を生み出した。江戸後期になると当国内でも強訴が頻発して広域化するようになった。幕末・維新の混乱の中で美作の幕府領鎮撫にあたった岡山藩,維新政府,農民の思惑が絡み合い,慶応4年から鶴田騒動が起き明治3年4月頃まで続いた。同4年廃藩置県により津山県・真島県・倉敷県・鶴田県・挙母県・古河県・生野県・明石県・沼田県・竜野県に分属,同年11月統合されて旧美作国は北条県となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7419809 |





