呼松村(近世)

江戸期~明治8年の村名。備前国児島郡のうち。宇喜多氏,小早川氏の支配を経て,慶長8年から岡山藩領。天城陣屋の家老池田氏知行所。村高は,「領分郷村高辻帳」91石余,「天保郷帳」115石余,「旧高旧領」107石余。また「備陽記」では,高91石余,反別10町3反余,家数87・人数692,「四季共猟アリ」と見え船数39。以降の家数・人数は,元文元年99・909,元治2年237・1,782と周辺の干拓に伴い急増している。当村自体の新開は,新開検地帳で承応年間~寛文年間に6町余あるが,干拓か起返しかは不詳。江戸後期では大島に新開があり,文化6年大島前浜で3町余が開かれている(田中家文書)。当村は典型的な漁村で,船数は寛政10年85,文化10年167うち肥船16,元治2年200うち肥船30,多くは漁船が占めた。大きくても6反帆までの船を使い,物資輸送にも従事した。福田新田(福田古新田)の地先に新たな新田ができ,嘉永5年高入されたが,その1つの松江により大島は水路を帯して陸続き状態となり,呼松港は湾入した狭水路となった。なお用水は多く天水掛りであったが,福田新田の用・悪水路のため嘉永5年呼松水門が完成,低地では東高梁【ひがしたかはし】川からの引用が可能となった。神社は八幡宮・稲荷神社など。八幡宮が氏神で,大晦日に村民が集まり,初日の出とともに,その年の代表が奏上文を読んで漁・農を祈願し豊凶を占う「さそう」という神事を伝える。寺院は児島霊場八十八か所第38番札所の古義真言宗御室派島向山松音寺安楽院。明治4年岡山県に所属。文久3年から慶応3年まで清水舎と称する寺子屋があったが,明治5年安楽院の一隅に呼松小学が設置された。同6年1番小学と改称。同8年王島村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7420369 |