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呼松(近代)


 明治22年~昭和28年の大字名。はじめ呼松村,明治37年福田村,昭和22年からは福田町の大字。明治24年の戸数417,人口は男954・女853,船168。戸数・人口は,同44年426・2,135,昭和25年586・2,675(福田町誌)。大正2年の全戸数425,うち漁業163戸,漁業人口男326・女50,漁業兼業人口男106・女62で農・商を主として兼業。鰆・鰻・黒鯛などで周年漁業に従事し,主要漁場は広島・香川・愛知・大阪・真鍋島地先に及んだ(漁村状況一覧表)。呼松港は港面積3,600坪であるが満潮時の水深は約2尋に過ぎず,干潮時には全面干潟となり出入不能(児島郡誌)であり,出入の多くは漁船で当地域の日用品の積込み,および農産物の積出しをした。大正11年の移出入は移入が19万円余,移出が60万円余,昭和元年には入が7万円余,出が28万円余,昭和9年の入30万円余,出48万円余を最盛期として漸減するが,第2次大戦直後にはやや活況を呈した。昭和10年の入港船舶1,063,1万2,970t。大正11年頃から下津井・宇野・味野などの港の扱い高が激増しているが呼松港は機能を失っていく。下津井鉄道などの影響も考えられる(県統計書)。昭和24年水島漁協を呼松海岸通に設立。工場用地造成により公有水面の埋立て,航路浚渫などにより漁場は狭隘化し貝類の養殖が主体となり漁業条件は悪化した。明治40年コレラが大流行し木之山神社を勧請。呼松郵便局は明治45年から電信・電話業務を開始。大正5年から当地に電灯がつく。明治36年黒住教王島教会設立,同40年黒住教福田講議所が当地に移転。呼松尋常小学校は明治32年広江寄りの呼松分天王に校舎新築,同37年第三福田小学校と改称,同44年高等科を併置(7学級),大正3年実業補習学校付設,昭和10年校舎改築。保育園は昭和8年私立わかば幼稚園として開園,同13年福田村呼松幼稚園,同23年町立第三福田保育園と改称。同28年倉敷市呼松町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7420372