安摩荘(中世)

平安末期~戦国期に見える荘園名。安芸国安南郡のうち。荘名は「和名抄」の安芸郡安満郷に由来し,衣田島(現江田島町)・波多見島(現音戸町)・矢野浦(現安芸区矢野町)・呉浦(現呉市)など広島湾東部沿岸島嶼一帯を領域とする。嘉禎3年3月日の安芸国安摩荘荘官等申状に「当御庄者去天永年中,依 鳥羽禅定仙院勅定,被建立之後,□地利被宛置高野山宝塔院仏聖灯油供□,久住者等相折,御起請厳重之地也」と見え,当荘は天永年間勅定により立荘された(新出厳島文書)。高野山検校帳によれば,その後長承元年11月1日には鳥羽上皇によって「海之庄」の年貢が高野山西塔仏聖人供料として寄進された。一方,留保された本家職(雑公事分)は美福門院を経て鳥羽上皇の娘八条院に伝えられ,八条女院領庁分荘の1つとなる。永暦元年6月28日の美福門院令旨に「安摩庄呉浦事」とある(高野山文書)。さらに,治承3年12月7日の権中納言平頼盛奉免状案によると,平頼盛が当荘に有していた領家としての私得分70石を毎日御供料として今度は厳島社に寄進(新出厳島文書),さらに八条院にも働きかけて,翌4年4月15日の八条院庁下文案ではついに八条院庁役の雑公事分をも免除し,厳島社に寄進することになった(厳島野坂文書)。もっともこれは実効性のないものであったらしい。一方頼盛の寄進分については,頼盛死後,建暦2年7月の斎院庁下文で半分の35石が供料米にあてられることになり(新出厳島文書),実際延応元年・同2年の厳島社日御供米送文が残されている(厳島野坂文書)。頼盛の所領は平家滅亡とともに没収されたが,まもなく安堵され,子息光盛を経て,寛喜元年6月にはその五女冷泉局に伝領された(久我文書)。なお仁治3年には安摩荘の荘官が厳島社領住人に殺害される事件が起こるが,これに関する同年3月12日の安芸国安摩荘内衣田島荘官百姓等解に,矢野浦・波多見浦・衣田島にそれぞれ惣公文・惣追捕使・国侍などの荘官が存在し,相互に連携している様子が見える(巻子本厳島文書)。彼らは開発領主の系譜を引き,荘務にあたっていた人々であろう。南北朝期以降になると,次第に高野山にも年貢が送られなくなったようで,明徳3年10月の高野山寺領注文には「安摩庄〈西塔領,不知行〉」とされている(高野山興山寺文書/荘園志料)。一方,厳島社領については,応永4年6月日の厳島社領注進状に「社家進止領家分」として「安摩庄〈五箇浦〉」と見え,天正8年後3月の房顕覚書には「昔厳島領事」として「天ノ庄」と見える(巻子本厳島文書)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7420580 |