田万里村(中世)

鎌倉期~戦国期に見える村名。安芸国沼田【ぬた】郡沼田新荘のうち。仁治4年2月日付沼田新荘方正検注目録写(小早川家文書)に「一,田万里十九丁五反半卅歩」とある。その内訳は除田3町3反(仏神田1町4反・人給田1町9反),定田16町2反210歩(御佃2反330歩・官物田15町9反240歩)。所当米(年貢)は39石3升8合で,この内13石7斗4升2合を地頭小早川氏が取得した。領家は西園寺家であったが,南北朝期の文和元年10月2日付新善光寺文書紛失状(新善光寺文書/大日料6-17)によれば「一通 安芸国沼田庄内真良田万里両村御寄進状」が見え,観応2年以前に京都一条大宮の新善光寺に寄進されていたらしい。地頭職は小早川新荘家の庶流小田氏に伝えられた。室町期,康正3年大内氏と武田・毛利・小早川氏らが安芸国内で合戦,この時,大内勢は小早川領分の「たまりと申所」に侵入したことが,5月3日付武田国信書状(毛利家文書)に見える。ついで応仁の乱頃から平賀弘頼が進出,小田氏を退けて当村を押領するようになった。このため小田元範は延徳4年4月に小早川本宗家の敬平に当村の半分を譲渡し,その代償に敬平から室町幕府の安堵を得てもらうよう依頼した(小早川家文書)。一方,同年,平賀弘頼は当村は小早川本宗家の先代平の代に借銭の質として受取った乃美郷十二名の替地に敬平から知行を認められたものと主張して幕府に訴えており(平賀家文書),また2月3日付内藤弘矩書状(毛利家文書)によれば,この頃「田万里之儀」について平賀氏が小早川領分に軍勢を向けたともいう。明応3年3月には敬平が勝訴して「沼田新庄内田万里村半分」の領知を認められた(小早川家文書)。さらに明応4年11月18日付杉武明契状写(同前)では「為割分田万里村可有与奪之由候」とあり,大内義興奉行人杉武明から当村を敬平に与える旨が伝えられている。以後も平賀氏は当村の回復を大内氏らに働きかけていたが(毛利家文書),明応8年9月に平賀弘保が義興に応じて九州出陣に参加,同年12月にはこの功賞に田万里の代所として所領1所を預けられた(平賀家文書)。その後当村は平賀氏の知行するところとなり,天文17年12月29日付平賀弘保袖判奉行人連署打渡状(山口県文書館所蔵文書)によれば,「田万里景仁名之内」として田5反・屋敷1所が弘保から被官の桂縫殿允に宛行われている。年未詳の12月8日付安国寺恵瓊・穂田元清等連署奉書(平賀家文書)では毛利氏から「田万里市」が平賀元相に返付されたことが見える。文禄4年9月平賀元相・市松が知行付立を提出した中に「芸州豊田郡之内田万里」688石6斗9升8合・家数79軒とあり,同年10月の平賀氏知行付立案には田数69町・分米649石6斗5升,畠数19町4反70歩・分銭39貫48文とある(同前)。なお「中書家久公御上京日記」天正3年3月27日条に「猶行てさいちやうの四日市といへるを打過……儅行て玉利の町を打過,宗満といへる入道の所ニ一宿」とある。地内には井上大炊の藤ケ平城跡,吉備津内膳の胡ケ丸城跡,吉見末徳師の末徳師城跡などがある(芸藩通志)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7422633 |