坪生荘(中世)

平安末期~戦国期に見える荘園名。備後国深津郡のうち。治承4年5月11日付皇嘉門院惣処分状に「ひこ つほう」と見える(九条家文書)。藤原忠通室で皇嘉門院生母の藤原宗子が法性寺内に創建した最勝金剛院領の1所で,嘉応2年一旦皇嘉門院の寵愛していた養子良通が譲得,その後松殿基房に付されたが,悔い返され良通へ譲渡されたという。文治4年良通夭逝後は父兼実のもとに寄せられ,以後九条家領として伝領された。元久元年4月23日付九条兼実置文では,最勝金剛院領などは皇女宜秋門院任子に譲られ,宜秋門院一期ののちは順孫道家に譲渡さるべきこと,門院領の管理や後事については道家の父で家嫡の摂政良経の沙汰とすべきことを定めている。建長2年11月の九条道家惣処分状によると,坪生荘の年貢は最勝金剛院の寺用に充てられること,本家職は道家の子一条実経の所持すべきことが定められ,注記に坪生荘は忠通の時最勝金剛院領として寄進されたとあって,久安年間同院建立直後に施入されたことがうかがえる。なお年未詳一条摂政実経家所領目録案断簡によれば,年貢として油1石が最勝金剛院に納められている(九条家文書)。南北朝初期には南朝方の仁井山城主神原氏が勢力を振るっていたが,北接する竹田高富荘鼓ケ城主の北朝方三吉覚弁に仁井の合戦で滅ぼされ,以後坪生荘は足利氏の勢力下に入った。そのため,鎌倉末期に坪生荘の総鎮守として神原氏が勧請したと伝える新中八幡神社の氏子も分裂,神体は大門村へ,太鼓は備中国有田村(現岡山県笠岡市有田町)に持ち去られたという。分裂した坪生荘のうち,備後坪生村と備中篠坂村(現岡山県笠岡市篠坂町)は備後坪生荘を称し,大門・引野・能島・野々浜・津之下の5か村は五箇荘,備中有田村付近6か村は備中坪生荘を称したといわれる(西備名区・福山志料)。このうち備後坪生荘は,開発領主の後裔と考えられる坪生氏とその支族陶山氏が支配していたものと思われる。その後,文明3年には山名是豊が坪生荘に下向,布陣して付近の諸城を攻略している(閥閲録45,三浦家文書/大日古)。また,一条兼良の「桃華蘂葉」によれば,当荘がこの頃なお九条家領として存続していたことが知られるが,山名氏による守護請も無実化し,園中納言基有に領家職を給恩しているものの年貢3,500疋や莚などの入手は困難になっていた。なお明徳4年4月7日付備後国御料所注文に備後8か所の1つとして「坪生領家職半分」が見え,南北朝末期頃すでに領家職の半分が守護料所となっていたものと思われる(細川文書)。下って戦国期,現福山市山手町の銀山城主杉原忠興(山名理興)は天文7年大内義隆の命により尼子方の神辺城を攻め落し,備後南部に勢力を拡張,坪生荘も支配下に置いた。しかしその後杉原忠興が尼子方へ転じたため,大内氏は同13年小早川氏に命じて,五箇荘内に神辺城攻略のための拠点となる城を築城し,同16年4月28日坪生荘の要害竜王山(青葉山)を落し,同18年9月忠興を出雲に敗走させている。天文6年陶山又次郎・坪生武高が建立したと伝える現福山市坪生町松崎の神森神社には,永禄6年小早川隆景と坪生桑高が再興した旨を記した棟札があり,小早川隆景が在地支配の実権を握ったことが知られる。こののち備後国は毛利氏の支配下となったが,毛利氏に取り入った忠興が弘治元年再び神辺城主となり,坪生荘一帯も杉原氏が支配するところとなったようである。坪生荘の荘域を知る上で注目されるものに現福山市大門町野々浜賀茂神社の牛王守符板木がある。これには永享11年正月5日の日付とともに「備中坪生庄」と彫付けられており(西備名区),坪生荘の荘域の拡大を示している。すなわち当初は坪生村付近のみであったと考えられるが,漸次拡大してゆき備中篠坂村を取り込み,さらに備中有田村付近6か村および深津郡内5か村が加わったものと推測される。当時の遺名と考えられる地名として坪生町には下屋敷・清水丸・殿坂・田之木ケ市・葉座などがあり,坪生氏代々の墓と伝える「おつぼうさん」と称する石塔群もある。なお坪生町竹ノ下の大塚土居前遺跡は16世紀の有力土豪館跡と想定されている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7422755 |