鉄砲町(近世~近代)

江戸期~現在の町名江戸期は広島城下の武家屋敷地鉄炮町とも書いた広島城の東,外濠と京橋川の間東白島町から南方の胡【えびす】町に至る竪筋の町で,東と西には同じく武家屋敷地の流川町・八丁堀が並行する町名の由来は,家中鉄砲方の者が住んだことによると思われるが,「知新集」には「此ところ御家中町の筋なれハ,もと鉄炮の打場なりしゆゑかく唱ふるか」とある元和5年の城下絵図では町間数520間広島藩御覚書帖では侍屋敷38・2万2,800坪余,御歩行以下拝領家1・180坪余(県史近世資料編)また寛永年間城下絵図では御かごの衆・御小道具の衆の屋敷も見える真宗超覚寺は浅野氏入国に従い紀伊国から当地に移転(知新集)明治11年広島区,同22年広島市の町名となる大正6年の戸数544・人口1,970,昭和26年の世帯数423・人口1,524同27年八丁堀筋にあった広島電鉄の市内電車白島線は鉄砲町筋につけかえられ,道幅も拡張されて八丁堀から白島方面への幹線道路となった同40年一部が上幟町・八丁堀・上八丁堀・胡【えびす】町となり,上流川町の一部を編入同55年中区の町名となる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7422771 |





