伴(中世)

鎌倉期から見える地名。安芸国佐東郡のうち。鎌倉中期と推定される年未詳3月日の安芸国衙領注進状には,杣村25町5反のうち応輸田の別府6町7反300歩があり,別府は久知村1町4反60歩,大墓村1町3反大と中伴4町から編成されていた(田所文書)。この中伴は,当地付近を指すとみられる。応永4年8月18日の室町将軍家御教書によれば,在地名を冠する武田伴遠江五郎が佐東郡内の厳島社領を押領しており(御判物帖),同11年9月23日の安芸国諸城主連署契状には,「伴兵部大夫経房」の署名が見られる(毛利家文書)。年未詳9月21日の武田元信感状は,伴要害の合戦で功績のあった木村国弘を賞したものである(木村文書)。天文10年5月15日毛利元就は,金山城落城後,伴城へ逃れた武田氏家人を攻撃して軍功のあった児玉就光に感状を与えている(閥閲録19)。また同11年11月14日の元就感状写は,伴退治の時に敵越田周防守を討取った児玉内蔵丞に与えたものである(同前100)。同12年頃伴口には石道・大塚とともに新関が設置されており,厳島社家衆は法会への参詣衆の妨げになると訴え,5月21日付の大内氏奉行人連署奉書によれば,大内氏はこれを認めて廃止した(厳島野坂文書)。年月日未詳の毛利元就知行注文案の一項目に「伴之事」があり,大内義隆の命により元就が伴城を攻撃し,伴の跡は元就へ与えられ,かつて元就が支配していた長塚は没収されたという(毛利家文書)。同21年2月2日の毛利元就・隆元連署知行注文には,「長つか」は見えるが,「伴」は記されていない(同前)。同23年6月11日の毛利元就・隆元連署感状は,「伴雑説之砌」に直ちに出動した堀立直正へ宛てたもので(堀立家証文写),天正3年卯月3日の堀立直正書状は,これを直正側から記したものである(同前)。毛利氏奉行人は,天文20年6月3日に「伴之内田数一町二反小 米三石九斗」の打渡坪付を山県就相へ与えているが,この中に「新畑」「近道」の称が見える(閥閲録92)。元就は,弘治4年閏6月28日に「伴之内田五町三段小廿貫前」を小倉元実へ(同前88),同年8月3日に「伴之内中畑,田一町五反 四貫三百 同久守名」を児玉就久へ(同前101),年未詳4月25日に「とものうちにおいて五くわんめ」を熊谷就真母へ(同前127),それぞれ宛行った。輝元は,天正2年閏11月14日,「伴之内少庵方夫」を福井就信へ安堵し(譜録),同4年2月9日,「田弐町 伴内西垣内小野原,箕打迫在之」を平佐就之へ安堵(閥閲録59),同日に粟屋元貞へも「佐東伴田弐町壱段小 米八石足〈三ケ所ニ在之〉」を安堵した(同前59)。同12年6月16日の毛利氏奉行人連署知行書立に,「参石足 同所(佐東)伴大原之内」と見え(同前78),同14年3月3日の毛利輝元袖判三吉氏給地付立には,「参貫目 同(佐東)伴」とある(譜録)。「房顕覚書」には,天正8年閏3月条などに「伴ノ大場」が散見する。文禄3年9月3日の林元善宛毛利輝元安堵状には,「安北郡伴村・阿土村之内参拾六石六斗」とあり(閥閲録91),安北郡は佐東郡の誤りであるが,毛利氏において「伴村」と表記した点が注目される。「伴村」の表記では「兼右卿記」元亀3年閏正月12日条が早く,「芸州佐東郡伴村八幡宮社官官幣注連大夫成廉中臣祓并奉幣次第相伝了」とある(大日料10-7)。岸城(伴城)は,武田氏一族伴氏の居城で,天文10年の金山城落城後は,一族が逃れて来て,同11年大内氏の出雲出兵の隙に再起をはかろうとしたが,毛利元就によって滅ぼされた(毛利家文書)。国重城は,武田信賢の次男信恒にはじまるとされる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7422891 |