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上右田村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。周防【すおう】国佐波郡のうち。江戸後期に右田村が下右田村と当村に分村して成立したと思われる。萩藩領。三田尻宰判に属す。村高は「注進案」では田1,665石余・畑225石余・山役2石余・川石14石余,「旧高旧領」1,897石余。なお,慶長2年6月28日の榎本元吉宛の毛利輝元領知宛行状に上右田村344石余が記され(閥閲録),寛永3年給領御配郡別石高名付附立では右田村は上右田・下右田に分けて記され,上右田の高843石余。また,元文5年には上右田・下右田両村庄屋連名で右田村として上申しており,当村分の高1,521石余,家数233・人数987,うち男492・女495,牛70,馬45,小村は上河原・中組・田ノ口,小名は青井・高野・森垣内・廻・新市・唐臼・末永・伏野・和田・峪・原垣内(地下上申)。原垣内(原河内)は佐波川東岸の飛地。「注進案」によれば,家数202・人数903,ほかに僧22など,職業は農民137軒・酒屋1軒・屋根師11軒・紺屋2軒・諸売人8軒・日用挊43軒で屋根師以下は兼農,牛1,馬105,右田毛利氏の家臣107人が居住し,城山のふもとに右田毛利氏の屋敷地2町四方程があり,御田屋(居館)・諸役所・御蔵が置かれた。当村の中心は石州街道沿いの新町で,同書によると,町の長さ150間,家並みは上分3軒・中分5軒・下分39軒。郷学として最も早い時期の開設と見られる寛永5年に時観園が設けられた。滝鶴台により享保15年から30年近く指導された。寛政12年杉の馬場の地に移り,博文堂と呼ばれ,天保年間に修来院と改称,弘化3年迫山に移転して学文堂となり,慶応2年本教館と改めた(山口県右田村史)。寺社には,田の口に日蓮宗本因寺,城山麓に曹洞宗日頼寺(現太平寺),浄土宗徳性寺,迫に曹洞宗海宝寺,熊野権現宮(熊野神社)があった。明治4年山口県に所属。同7年本教館に右田小学を置いた。同18年同校は高井中塚へ移転し,海北小学校となり,旧右田小学校は海北小学校上右田分校となった。同18年の戸数335(うち士族78)・人口は男836(うち士族184)・女798(うち士族189)の計1,634(県地誌原稿/山口県右田村史)。同22年右田村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7425113