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島戸浦(近世)


 江戸期の浦名。長門国豊浦郡のうち。豊浦郡田耕筋に属す。島戸村ともいい,ほかに島戸後地・島戸地方がある。はじめ萩藩領神田村のうち。のちに,島戸地方のほかは長府藩領となる。萩藩領神田下村の小名として島戸の地名が見える(地下上申)。村高は,国司備後一所衆知行附立(閥閲録)に島戸村289石余と見え,長井喜右衛門60石,一来七郎左衛門55石余,三隅内蔵充123石余,児玉隠岐50石と給領地であって,のちにすべて蔵入地となった。また,「地下上申」では島戸浦の海上石24石余・島戸地方62石余(田47石余・畑14石余),「村浦明細書」では田47石余・畑15石余,「旧高旧領」では島戸後地62石余とのみ記されている。元和元年には浦屋敷26か所と見える(豊浦水産資料)。「地下上申」によれば,家数は島戸浦に76,島戸地方に15,人数は同浦316(男185・女131),同地方73(男40・女33),当浦の漁は「春より夏迄之間鰯鯣猟仕候事,夏より秋迄之間鯛瀬物雑魚猟仕候事,秋より冬迄之間鰤猟仕候事」とあり,沖猟船3艘,夏小船8艘があった。「村浦明細書」によれば,家数は島戸浦163・同地方15,人数は同浦787(男389・女398)・同地方65(男35・女30),沖漁船・渡海船24,磯小船26,諸職業として細物免札1・船大工2・家大工1・桶屋1がおり,島戸後地には酒屋1・紺屋1・桶屋1・大工1がいた。寺院には真宗和光山教善寺・同宗思恵山専福寺と観音堂,神社には八幡宮・三宝荒神社があった(寺社由来)。当浦は一本釣り・延縄漁が主で,イワムシ・ドジョウなど生餌が使用された。長府藩領の島戸浦と萩藩領島戸地方は絶えず利害が対立し,天保14年には釣餌・網干場・磯物採用・薪材などについて協定した。しかし,翌15年2月には長崎・篝場の永否所調査に端を発した争いが起き,12月に至って萩藩の主張が通った。この際の協定には民俗学的に興味深い記事があり,先大津宰判島戸永否床論地一件として知られている。また,捕鯨業は延宝6年に肥中浦と共同で出願したがまもなく止み,元禄10年鰤網を改良して鯨網を作った。元禄11年には座頭鯨1本を獲ったところ,萩・長府両藩に無断で獲ったとして,島戸浦庄屋と網頭の2人に閉門が命じられた。のちには藩事業として認められ,島戸浦そのほかの突組ができた。享保17年の飢饉には50軒の潰百姓を出したが,明和3年には家数62軒に復興。また天保5年の大火では漁家130・神社2・納屋12,文久2年の大火では漁家135を焼失した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7425516