須恵村(近代)

明治22年~大正9年の厚狭郡の自治体名。西須恵村が改称し,市制町村制施行により単独で自治体を形成。村役場は西の浜に設置。明治33年古開作13の割に移転,同41年古開作17の割に新築移転。のちにこの地域は公園通りと通称されるようになり,役場はそのまま小野田町役場,小野田市役所となり,昭和38年まで存続。明治24年の戸数1,374・人口4,936(男2,497・女2,439),厩320,寺院4,学校1,船375(徴発物件一覧)。明治22年日本舎密会社(現日産化学小野田工場)が創設され,硫酸会社と通称された。同26年セメント製造会社は,社名を小野田セメント製造株式会社と改め,俗にセメント会社と呼ばれた。明治17年笠井順八は,第1・第2小野田丸を建造して,小野田―埴生【はぶ】―長府―下関間1日2往復の定期航路を開いた。同23年笠井の提唱で船木(楠町)~小野田間の,いわゆる刈屋道を車道として整備,拡幅した。同33年山陽鉄道(現JR山陽本線)が開通,隣接する高千帆村の揥山沖に小野田駅が設けられた。次いで同駅前から新道が敷設,同42年有帆川に小野田橋が架橋。大正2年小野田駅~セメント町駅間に小野田軽便鉄道が開通。この頃当村は商工人口が急速に増加。農業は蔬菜を栽培。水産業では響灘や長崎県沖に出漁,内海の定置網漁とともに木戸・刈屋は栄えた。石炭の採掘は,明治17年雀田炭鉱に蒸気ポンプを導入してから次第に発達。特に日清・日露戦争以後,中小の鉱山が出現。明治末期には第1小野田・野来見・松原・高平・二本松・下名切などの鉱山があり,大正2年に本山一の山炭鉱,同8年に大八炭鉱(のちの桜山炭鉱)が開鉱した。江戸末期に起こった旦の皿山(製陶業者)は,同26年日本舎密会社の要請にこたえて硫酸瓶の製造を開始。セメント会社と硫酸会社の創業発展に伴い社宅や寮が建設され,商店が進出。また新開作には綿作りや米造りの農民が集まった。こうしてまずセメント会社付近をセメント町,その後硫酸会社付近を硫酸町と通称するようになった。またセメント会社の給料日の毎月7日と22日には,その門前近くに勘定市が立った。明治24年小野田郵便局開設。翌25年報恩寺が郵便局の近くに移転。この道筋は寺町(現千代町)と呼ばれた。同27年船木警察署小野田分署設置。翌28年寺町の北の通りに伏見稲荷を勧請して稲荷神社を祀り,この付近は稲荷町と呼ばれるようになった。中開作古土手にも道の両側に町屋が並び横町と通称,明治35年横町の中程に蛭子社を創建したので,蛭子町(現本町)とも呼ばれた。明治32年小野田銀行が創設。その後稲荷町の北方は中川町(現南中川町・北中川町),栄町と通称されるようになる。またセメント町は町並みが延びて,南から1~4丁目と区画された。中川の用水路は60番土手下の遊水池に注いだ。この土手沖に小野田丸発着の桟橋が架かり,中川の水路に沿って芸者の置屋や遊郭・検番などができ,60番通りと通称され,色町として有名になった。明治32年笠井順八は私祭社住吉明神の社殿を小野田山の南西の外れに新築し,同41年セメント会社の鎮守社となった。この後,この付近は同社の社宅地帯となり,神社前から西へ走る道路沿いは住吉町と呼ばれるようになった。また,南若山の硝子会社跡地から西へ走る今川通りのつづき,セメント会社までの間は大正初年以後,大正町と称された。人口は,明治14年には3,341人であったが,同45年には9,877人に増加。若山公園は大正5年の開園。明治37年セメント会社の近くに笠井順八が開いた小野田夜学会は,のちの小野田実業実践学校につながるもので,県立小野田工業高校の前身。明治26年小野田尋常小学校が新築開校。同年須恵尋常小学校を須恵尋常高等小学校と改称。同33年須恵高等小学校を若山(現須恵小学校所在地)に独立開校,同44年須恵尋常高等小学校と改称し,従来の須恵・小野田両尋常小学校をそれぞれ低学年通学の分校とした。大正5年小野田尋常小学校を現在地に復校した。同9年の人口1万5,358。同年改称し,町制施行して小野田町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7425613 |