100辞書・辞典一括検索

JLogos

35

吉敷村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。吉敷郡のうち。吉木村とも書く。萩藩領。山口宰判に属す。慶長5年の検地帳で吉敷庄,同15年の検地帳では吉木村,寛永2年検地帳に吉木庄,元禄12年以後吉敷村となる。村高は慶長15年検地帳には中尾を含むと思われ4,280石余,寛永2年検地帳では中尾と合わせて3,978石余,「地下上申」3,860石余,「天保郷帳」では古くは当村と畑村の2か村とあり吉敷庄村と見え4,493石余,「注進案」3,970石余,「旧高旧領」3,166石余。なお,「元禄郷帳」には当村枝郷畑村がある。慶長15年検地帳では,田300町余・3,959石余,畑22町余・119石余,小物成24石余。当村は毛利氏の防長移封後,一時老臣福原氏の領地であったが,寛永2年毛利氏一門毛利元包との所領の交換により福原氏が宇部へ移り,元包が当村のほか美祢【みね】郡・厚狭【あさ】郡・豊浦郡に7,000石を領し,居館を当地に置いたことから吉敷毛利と呼ばれた。のち,江戸後期には同氏は吉敷郡朝田村などを加え1万800石を領した。「地下上申」によると,田3,455石余・畑40石余,家数287・人数921(吉敷毛利家の家臣を除く),小村は宗本・木崎・中村・出屋・東村・いかち(伊梶)・新町・左畑・滝河内・小高・赤田・関屋・大坪・寺領・畑・室地。「注進案」によれば,田3,585石余・畑385石余,家数280・人数1,150うち男575・女548・僧19・社人8,ほかに吉敷毛利家の家臣198軒があり,当村には商家も多く,農業のほか酒屋・油屋・麹屋・瓦師・鉄細工・桶屋・鞍細工・醤油屋が各1軒,紺屋5軒,小商人14軒があった。文化2年吉敷毛利房裕は家臣で学者として名のあった服部伝巌の建言を入れて,郷校憲章館を創建し子弟の教育に当たった(明治2年に廃す)。その影響により幕末の萩藩の内訌戦から維新動乱期には,家臣の青年が尊攘派に属して活躍し,明治期には中央に進出して名を成したものも少なくない。社寺は赤田神社・土師神社・畑河内神社・竜蔵寺・玄済寺・円正寺・長楽寺・光福寺・円満寺,ほかに「注進案」には,大日堂・釈迦堂・観音堂・阿弥陀堂などがあったとしている。赤田神社は古くは良城大明神といい,吉敷郷の鎮守社であったといわれ,周防五社のうち4番目に当たることから別名四の宮神社ともいう。竜蔵寺は真言宗で,境内東方の山中,鼓の滝の奥に岩窟があり,これを奥の院といい,岩には大きな仏像の線彫がある。寺伝によれば,文武天皇の2年役の小角がこの山中で護摩供を修し,熊野権現を勧請したという。その後天平13年行基の建立ともいう。境内の観音堂には千手観音を安置している。これは鎌倉期の作で,昭和41年県文化財に指定されている。当寺にある大日如来は藤原期の作で,伝承によれば,佐々木四郎高綱がこの地を与えられたとき,大日像を刻して堂宇を建立,これを妙法寺と号し,その後火災のため旧記・什宝を失ったといい,大日如来は当寺に移された(注進案)。大日如来像は昭和19年国重文に指定されている。観音堂前にあるイチョウの大木は昭和17年国指定の天然記念物である。玄済寺は曹洞宗で,代々吉敷毛利家の菩提寺である。浄土宗西山派長楽寺は明治3年に朝田村の最明寺と合併して,一時長明寺と称したが,同13年再び旧に復した。ほかに,浄土真宗本願寺派円正寺・日蓮宗円満寺がある。明治4年山口県に所属。同6年新町円正寺に新町小学開設,同9年良城小学と改称。当地にかつての武士が多かったことは,それらの人々を中心に日本初ともいうべき青年団体として明治19年良城青年会が発足するなど,当村の社会教育などに影響を与えている。明治12年の周防長門諸郡一村限地券税帳によると,田251町6反余・畑33町6反余・宅地15町7反余。同16年の戸数550・人口2,454(県の統計百年)。同22年吉敷村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7426846