100辞書・辞典一括検索

JLogos

41

和佐村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。周防【すおう】国大島郡のうち。萩藩領。大島宰判に属す。村高は慶長5年検地帳75石余,同15年検地帳231石余,寛永2年検地帳301石余,元文2年403石余(地下上申),「天保郷帳」363石余,天保12年390石余(注進案)。慶長15年検地帳によると田9町2反余・畑13町1反余,屋敷26か所,塩浜23石余。天保12年の田畑浜は25町6反余(注進案)。内浦と外浦が迫った地形で内浦はすぐ神浦村であり,両村が境を接している。塩浜については慶長15年検地帳で23石余,寛永2年検地帳に6反余・高42石,元文2年に26石,うち7石余塩浜永否捨り石高,天保12年には塩浜数1町2反余,浜高28石余の所だが畑高7石余を残し休石とされている(注進案)。当村には船手組平岡八左衛門の給領地があった。蔵入地と給領地は元文2年に155石・248石余(地下上申),天保12年に172石余・241石余。村高の約6割が給領地で,在宅の陪臣が11人在村した。小名に久保・土本・浜・城の岡がある(同前)。家数・人数は,元文2年に43・173(同前),天保12年98・592(注進案)。農間余業として男は苫編,女は木綿織りを行い,中苫年産8,800帖代銀6貫160匁,白木綿2,000反代銀14貫匁の現金を得た。また唐芋4万4,450貫目うち3万8,572貫は食糧に充てられ,残り5,878貫目で代銀1貫763匁余を得た(同前)。神社には正八幡宮があり,和田村筏八幡宮の祠官が神事を勤めたが,氏神は和田村筏八幡宮であった。寺院には禅宗心月院があったが無住となり,明治初期頃森村法明庵へ合併して法心寺と号した。慶応4年の当村の公称高158石余(郷村高辻帳)。明治4年山口県に所属。同12年には田11町4反余・畑18町8反余(周防国大島・玖珂郡一村限地券税帳写)。同14年には田11町4反・畑18町8反,戸数178・人口867(大島郡治一覧表)。同18年には戸数179・人口875(同前)であった。農家の次男・三男は西方あたりの農家へ年季奉公に出た。当村からは多くの海外移民が出ている。明治18年第1回ハワイ渡航者男9人・女9人の計18人,第2回は山口県では募集せず,同19年第3回には男9人・女5人の計14人,同20年第4回には男10人・女9人の計19人であった。同22年森野村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7426904