100辞書・辞典一括検索

JLogos

28

河端(中世)


 戦国期から見える地名。板東郡のうち。天文21年11月7日の念行者修験道定文(良蔵院文書/徴古雑抄2)の連署の1つに「河端大唐国寺」と見え,当地の大唐国寺は阿波国内の有力な修験19か寺の1つであった。現在当地の唐土谷に残る大唐国寺跡からは,平安前期の複弁八葉蓮華文鐙瓦などが出土し,また寺域内と推定される場所にある経塚からは経筒7点・銅鏡・天禧通宝・紙経片などが発見されている。この寺は付近にあるかんぞう(韓崇・漢崇)山や唐園などから渡来人に結び付ける説や,紀氏の氏寺とする伝承もあったという(県史1)。「三好家成立之事」には「一,三好修理大夫長慶永禄年中病死セリ,子息右京大夫義継モ元亀二年七月病死シケルガ,乱国ノ最中ナレバ隠之,松永弾正相謀テ守所々,先住国阿波ノ勝瑞ニハ長治……川端村ノ城ニハ川端越前守」とあり,当地の川端城には当地を本拠とした川端氏が配置されていた(群書21)。なお「古城諸将記」には「川端城 川端越前守 藤原氏,百五十貫,紋竹ノ丸車下上巻,浅(漆カ)原六郎左衛門公時ヨリ十六代之末子ナリ」と見え(徴古雑抄7),漆原氏については「故城記」に「漆原殿 藤原氏 竹丸中ニ車下ニ上ケ巻」とある(同前3)。漆原氏は上野国群馬郡漆原村を本貫とする御家人で,鎌倉中期~南北朝期には富吉荘の地頭で,当地はこの漆原氏の拠点であったと考えられ,在名をもって川端氏を称したという(城跡記/徴古雑抄7)。天正11年と推定される年欠12月11日の豊臣秀吉感状(篠原家文書/新編香川叢書史料編2)によれば,秀吉が十河存保を救援するために派遣した千石秀久が,同4日に吉野川北岸を焼き打ちした際に,篠原太郎左衛門尉が「河端城押詰,外構乗崩,数輩討取」ったとして,感状を与えている。篠原太郎左衛門尉は,同年月15日の千石秀久副状(同前)によれば,天正10年の中富川の戦・勝瑞籠城に参加しており,三好氏の重臣篠原氏の一族である。当時の城主は長宗我部氏に降った川端氏で,天正13年蜂須賀家政入国後当地を追われた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7427490