桑野村(近世)

江戸期~明治22年の村名。はじめ那東郡,寛文4年からは那賀郡のうち。徳島藩領。村高は,寛文4年の高辻帳,享保元年の高辻帳,天明7年の高辻帳ともに1,389石余,「天保郷帳」1,920石余,「旧高旧領」2,122石余うち蔵入地1,148石余・梅谷寺領10石で残りは藩士15名の知行地。「阿波志」によれば,中野・川西・蛭地・岡本・中留の5集落の名が見え,反別78町余,村高2,099石で半分は采地,戸数288・人数1,334。万治年間頃に内原村を分村したという(桑野村誌)。寛保神社帳(続徴古雑抄1)によると当村の神社は,当村の梅谷寺を別当とする天神・二宮大明神・王子権現と,当村の万福寺を別当とする若市王子権現・王子権現・帳取権現・杉尾権現・大本大明神。真言宗万福寺は浦ノ内の地にあったものを,長宗我部による桑野城落城後,現在地に移し,船岡山地蔵院万福寺と改称して現在に至る。真言宗梅谷寺は慶長3年に徳島藩が寺廻10石を与えて,旅人の宿泊所とするとともに,旅人の監視をも行う駅路寺に指定されている。幕末には片山甚蔵が寺子屋で国語・漢文・算術・習字などを教えた。明治4年徳島県,同年名東【みようどう】県,同9年高知県を経て,同13年再び徳島県に所属。明治11年当村に,当村と内原村の2村の事務を取扱う役所を置く。明治8年中野の地に片山甚蔵宅を校舎として,公立桑野小学校創立。同16年同校は校舎を新築して長久小学校となり,のち桑野尋常小学校と改称し,同21年には山口村に分校を設置。明治22年桑野村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7427614 |