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桑村(近代)


 明治22年~現在の大字名。はじめ桑川村,明治40年からは川島町の大字。明治24年の戸数813・人口2,075(男902・女1,173),寺1,学校1,船13(徴発物件一覧表)。明治20年代は藍作の最盛期で,住民は藍作だけにたより,現在も残る白壁の藍寝床が当時の繁栄を物語る。明治28年インド藍が,同35年ドイツの化学染料が輸入されるようになり,藍作は急速に衰退し,養蚕がこれに代わった。町の奨励や技術の向上で,県下屈指の養蚕地帯となる。中小の製糸工場や,家内工業によって生糸が製造され,繭の価格安定のための乾繭場も建てられた。しかし昭和初年の世界経済不況や,生糸の対外輸出不振で,養蚕は吉野川の地下水を利用する米作に転換,大規模な耕地整理も行われた。また毎年の洪水対策として,吉野川改修工事が行われ,堅固な堤防が築かれたが,対岸の善入寺島は遊水地帯となって,桑村須賀の住民は立退きを命ぜられた。堤内も内水のために人家・耕地・道路が浸水したが,昭和39年,同41年の川島・学島両排水機場の建設で,村はようやく洪水禍から救われた。昭和42~58年の国営麻植開拓パイロット事業により,山麓一帯は開墾されて温州ミカンの産地となり,平地の水田は裏作としてビール麦・ニンニク・野菜を栽培。字岡山や源光寺では,日用雑器の川島焼が盛んに製造され,四国各地に積み出された。明治41年川島小学校は現公民館・保育所・幼稚園・町役場のある字南寺に移り,昭和50年字久保田に移転。また川島中学校は同42年川島町のほぼ中央の字伊加加志に移転。大正13年県立麻植中学校は字岡山の台地に建てられ,昭和23年川島高校と改称。同校周辺は住宅団地として開発が進んでいる。世帯数・人口は,昭和40年561・2,365,同50年726・2,604,同59年859・2,901(男1,410・女1,491)と急速に増加しつつある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7427620