100辞書・辞典一括検索

JLogos

38

高島(近代)


 明治22年~現在の大字名。昭和22年5月からは鳴門町を冠称。はじめ鳴門村,昭和15年鳴門町,同22年3月鳴南市,同年5月からは鳴門市の大字。明治24年の戸数528・人口2,620(男1,384・女1,236),寺1,学校1,船93(徴発物件一覧表)。昭和55年の世帯数459・人口1,349(男625・女724)。当地の住民の大部分は江戸期から塩業従事者として,地元の製塩業者のもとで働いてきたが,製塩法の技術革新が行われ,昭和28年度から入浜式製塩が流下枝条式製塩へと切り替わった。同41年には製塩法の近代化・合理化が飛躍的に進んで,イオン交換膜樹脂法(電気製塩)が採用されたため,広大な塩田は不要となり,塩田従業者も,同47年から完全に失業するにいたった。当地にあった塩田約100haは,三ツ石地区の塩田とともに,鳴門町土地区画整理組合のもとで,面積175.7haの土地造成が行われ国立鳴門教育大学の敷地および住宅地区として利用された。海洋レクリエーション基地の一部としての開発も計画されている。昭和2年入浜式製塩が行われていた鳴門塩田の労働争議が起こり,105日間に及んだ。争議は,大正14年好天続きで,塩がとれ過ぎ,翌15年に2割の生産制限が行われるようになったため,徳島撫養塩田労働組合は,徳島県塩業組合に1日40銭の日当を50銭に上げるように要求したことから始まり,同年5月鳴門村高島以外の塩田労働組合は作業を開始し,高島浜人会(塩業資本家38名)と,組合員512名の労働組合高島支部の争いとなった。大阪の日本労働組合評議会から応援にきて,争議団を指揮した。思想のちがいや感情の対立もあって,闘争はしだいに激しくなり,争議団が自衛団をつくると,浜人会もこれに対抗したため,7月には暴力闘争の動きがでてきた。県の労働争議の調停係官と撫養警察署の警官が労資両者に働きかけたが,なおストライキは続いて同年7月30日ようやく調停が成立したものの,賃上げは行われなかった。入浜式製塩法の時代は浜部屋生活で,塩業家が浜元,労働者が浜子といわれ,親分子分の雇用関係,徒弟制度のような労使関係が長い間続いてきた。流下式製塩法へ変わった昭和28年頃から,雇用関係も一年制から永年制へ,賃金も日給制から月給制へ,能率給・時間外手当・退職金制度の導入へと転じた。反面,失業者が続出し,青年たちは県内外へと出稼ぎに出て,当地の在住者は老人・婦人が増え,さらに電気製塩法の導入によって,転業するにいたった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7427986