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橘町(近代)


 大正元年~昭和33年の那賀郡の自治体名。町制施行時は大字を編成せず。人口密集地のため伝染病がしばしば蔓延し,大正5年にはコレラ患者5名(うち3名は寄港船の乗客),腸チブス患者6名をだす。この時患者を大油の避病院に隔離させぬように要求する町民が助役に暴力を加え,6名が騒擾罪で有罪になった。このほか同7年流感により62名が,同9年コレラにより13名が死亡。大正7年に米価が高騰し,町民の9割を占める漁・商工業従事者の救済のため,1升につき7銭の補助金を出し,147石余りを販売。同10年に那賀自動車が設立され,羽ノ浦村古庄―橘―日和佐町の乗合路線が開設した。同13年に2人乗りの水上飛行機千鳥号が橘湾に飛来し,見物人2万3,000人が集まった。同14年に橘小学校でラジオを購入し,夜間町民が聞きに集まった。漁業の町であるために,漁法の紛争が生じることもあり,大正12年の地引網を操業した漁民と他の漁民との紛争は,地引網の使用禁止で話し合いがついた。小作争議も若干起きたが,昭和2年に町内の小作料減免調停委員が10件の調停をしたのみで解決している。大正9年の町勢は,田108町6反・畑10町2反・宅地12町,世帯数1,032・人口4,874(男2,086・女2,788),西洋型船舶28・和船50石以上1・小型和船102・他の船舶89・汽船1,人力車10・荷車130,米1,460石・麦429石・豆類33石・サツマイモ1万貫・野菜6,950貫・果物4,750貫・筍1万2,000貫・イワシ7万貫・タイ1,021貫・カレイ346貫・アジ1,299貫・イカ1,922貫・タコ999貫・エビ959貫・ナマコ5,015貫・イワシ煮乾2万貫・干ナマコ300貫・魚肥8,300貫・カマボコ500貫,牛37・馬31・鶏450,小学校尋常10学級,生徒男345・女326,高等科1学級,生徒数10(旧橘町役場文書)。大正8年小学校に町立橘実業学校(商業科・裁縫科)が,修業年限2年で開校した。昭和11年に国鉄牟岐線が桑野まで開通し,答島に橘駅が設置された。昭和9年に忠魂碑が建設されたが,戦死者数は日清戦争2・日露戦争13・日中戦争21・太平洋戦争202。昭和初年まで町の北部に9割の人口が集中し,漁業・商工業に従事し,南部鵠地区で1割の人々が農業を営んでいた。戦後,大規模工場が建設され,農・漁業の著しい後退とともに商業と徳島・富岡への勤務者の町となりつつある。「県市町村勢要覧」によると,昭和26年の田102町・畑32町・宅地5万4,349坪(18町余),昭和25年の世帯数1,198・人口5,448(男2,555・女2,893),昭和22年の産業別人口は,水産業501・製造工業396・農業316・商業198・サービス業99・運輸通信業91・自由業59・建設工業59・公務員45,同26年の生産物米987石・麦184石・サツマイモ1万貫余・ジャガイモ3,000貫・ソラマメ1,500貫・大根5,070貫・柿1,700貫・ミカン1,200貫・タバコ960kg,乳牛6・役肉牛45・馬13・鶏670,魚類19万貫余・貝類210貫・藻1,100貫・煮乾5万3,228貫・塩乾725貫・筍缶詰5万7,000貫,工業では食料品工業44,木材・木工業5,輸送用設備5が主なものである。橘中学校は昭和22年橘小学校に併設され,翌23年大字幸野に2階建教室が建設された。昭和30年新野町・椿町・福井村を合併し,大字なしの旧橘町域のほか合併各町村の旧大字を継承した7大字と椿泊から独立した伊島を加え,8大字を編成。同年の世帯数4,210・人口2万1,031。同33年阿南市の一部となり,町制時の8大字は同市の町名に継承。なお,その際大字なしの地域は阿南市橘町となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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