立江(近代)

明治22年~昭和32年の大字名。はじめ立江村,明治41年立江町,昭和26年4月小松島町,同年6月からは小松島市の大字。明治24年の戸数413・人口2,193(男1,120・女1,073),寺2,学校1,船236(徴発物件一覧表)。「産物ハ米ヲ以テ最大トシ平年1反歩ニ対シ乾田ハ2石5斗此ノ総額2,243石余リ」と記された(国民文庫)ように産業稲作を主とする農業であり,第2次大戦前の農会の活動や村農政の中心は稲作振興が中核であった。同44年の隣接櫛淵を含む稲作の作付面積4,424反・総収穫高9,998石余(那賀郡農会調書)。大正・昭和期と野菜・甘藷・温州ミカンを栽培し,養蚕を行うなど経営の多角化がすすめられたが,隣接櫛淵とともにその全国有数の特産物として盛んに栽培されたのはヤマモモと筍であった。また立江耕地整理組合が結成され灌漑事業も進められた。門前町であると同時に農村地帯で比較的生産力に恵まれていたこともあり,工業化は遅延し,大正期には食料品業のみ,昭和期に入って煙火製造工場が設立された。商業は,大正5年の阿南鉄道中田~古庄間開通に伴う地内立江駅設置を契機に那賀川北岸隣接地域を商圏に加え発展した。大正初期の商店は,飲食店5・旅館4・菓子店3・料理旅館3などとなっている。第2次大戦後は隣接大林に国道55号が開通整備されたこともあり,商工業はあまり発展せず商圏も縮小しその対応が問われた。昭和32年立江町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7428040 |





