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種野山(中世)


 鎌倉期から見える地名。麻殖【おえ】郡のうち。麻殖山とも称した。元亨元年11月19日の麻殖山代官下知状に「麻殖山内三木村番頭百姓等訴申条々下知事」とあるのが麻殖山の初見で(三木文書/徴古雑抄1),同山の内に三木村・大浦・戸山などが含まれていたことがわかる。また種野山としての初見は嘉暦2年3月8日の種野山注進状案で(同前/阿波国荘園史料集),「阿波国種野山在家員数同御年貢御公事」と見え,東山名(現美郷村東山)・戸山名・下別司(現美郷村別枝山)・上別司(同前)・気多(現山川町桁山)・大浦(現木屋平村木屋平)・奥・三木(現木屋平村三ツ木)・カシ原(同樫原)・河井(同村川井)・中村名(現美郷村中村山)などの広大な地域を含み,種野山と麻殖山とは同一のものと考えられる。なお同文書には,在家分銭や各名【みよう】の公事および所当銭その他の課役などが記されており,種野山には,本在家が123宇半あったことが知られる。この年,種野山では,名主等の補任が行われており,同年3月12日の御使広氏御代官願仏連署下知状では,沙弥真蓮を「三木名番頭職」に任じ,同年3月日の種野山政所下文では所権太夫の相伝の在家である「麻殖山加志原内大窪在家一間」を安堵している(同前/徴古雑抄1)。ところがその後,嘉暦4年5月12日の左衛門尉忠信安堵状(同前)では「種野山内大窊(窪)在家半」すなわち大窪在家の半分が「折中之儀」によって重久に充行われている。種野山は,天皇践祚の大嘗会に荒妙衣等を献ずる忌部氏人が居住するところで,三木名の三木氏は代々その長者を勤めた。正慶元年の北朝光厳院の即位に際し,三木右近允長村が勅使御殿人長者に任じられたが,同年11月忌部の氏人11名は結束をはかるため連署して契約状を作成している(同前)。元弘3年11月にも再び忌部の氏人は契約をかわし,御衣殿人としての結束を固めている(同前)。南北朝内乱期に入ると,忌部の一党は当初北朝方に加担し,暦応元年12月2日,北朝光明天皇の即位に際して,三木重村は長者に任じられ,康永4年9月6日には,左兵衛尉に任じられた(同前)。また貞和2年9月28日には,三木氏の一族と思われる覚盛なる人物が北朝方の某人によって「大浦内宇津井歩名主職」を安堵され(同前),観応2年7月22日には同じく三木衛門尉に「種野山国衙分三木内在家弐処」が安堵されている(同前)。ところが三木氏は,観応の擾乱を境にして南朝方に転じたため,種野山一帯は南朝の勢力下に入った。種野山で最初に南朝方についたのは河村小四郎であるが,観応2年10月3日に飯尾隼人佑に攻められ,1か月で敗れている(飯尾文書/徴古雑抄2)。翌正平7年7月日の粟野三位中将御教書によれば,三木左衛門尉は南朝方につき「阿波国種野山内三木名」を本知行として安堵されている(同前)。正平10年以後は,種野山内には南朝方として三木氏と木屋平氏が勢力をふるい,それぞれ南朝方から本領の安堵,新恩の給与を受けている(飯尾文書・松家文書/徴古雑抄2)。これに対して北朝方は,細川の重臣飯尾氏が樋山路から東山に入り,別枝山に及ぶ種野山の東部一帯を支配した(県史2)。細川頼之の勢力が阿波西部の山岳地方に及ぶようになると,応安5年11月21日には種野山の小屋平新左衛門が頼之に降り(松家文書/徴古雑抄2),翌年4月22日には,同人に種野山大浦の地頭職が守護細川頼有によって預け置かれた(同前)。さらに頼有は,応安6年7月25日三木村の三木太郎左衛門重村に「種野山国ケ方内三木名」を預け置き(三木文書/徴古雑抄1),ここに種野山の全域は北朝方の守護細川氏の勢力下に入るところとなった。至徳3年11月28日の某袖判下文は「阿波国種野山」の「中村五間」を三木の太刀帯に所領として安堵しているが,この文書の発給者は頼有と考えられる(同前)。さらに嘉慶元年11月26日の細川頼有譲状によれば,阿波・伊予・讃岐の所領のうちとして「あハたねのやまこくかしき」が見え,「まつほうし」すなわち細川頼長に譲り渡されている(細川家文書中世篇)。応永7年8月24日の室町幕府御教書では,細川頼長の所領8か所の所職が安堵されているが,その中にも「種野山庄」が見える(同前)。当地は鎌倉期~南北朝期を通じて,国衙領であったと思われるが,その後細川氏の私領化が進んだため,種野山荘と称されたものと考えられる。現在の木屋平【こやだいら】村の全域および美郷【みさと】村西部や山川町南部を含む一帯に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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