椿地村(近世)

江戸期~明治22年の村名。はじめ那東郡,寛文4年からは那賀郡のうち。徳島藩領。享和3年の阿波国郡村仮名付帳(県立図書館蔵)には椿村の枝郷として見える。村高は「旧高旧領」901石余うち蔵入地22石余・森甚五兵衛の知行地878石余。なお寛文4年の高辻帳,享保元年の高辻帳,天明7年の高辻帳,「天保郷帳」には当村の名は見えない。当村に肝煎が置かれて,村として成立したのは正徳年間とする説があったが(福井村誌・桑野新野福井郷土読本),延宝2年の棟附帳(福井村誌)には肝煎として左次衛門を記しており,同年までに当村は成立していたものと思われる。明暦4年の棟附帳(同前)では,高881石余うち椿村からの出作10石余,家数79,男の人数197。延宝2年の棟附帳(同前)によると家数94,男の人数195,文化8年の棟附帳(同前)では家数180・人数833。「阿波志」によれば,小谷・大谷・中内など7集落の名が見え,反別69町6反余,村高897石で大部分は采地,戸数139・人数518,寺院は多聞寺。寛保神社帳(続徴古雑抄1)によると当村の神社は,二宮杉尾明神・惣蔵権現・巌島明神・天神・住吉大明神・王子権現,社僧は王子権現が多聞寺であるほかはすべて下福井村神宮寺。寛政元年年貢・夫役の過重負担から肝煎益太に対する騒動が発生。同2年3月藩は中内を除く当村の百姓を集めて取調べを実施し,5月には首謀者5人が捕らえられた。同年12月には百姓26人が徳島へ願書を出しに行くなどの動きがあった。結果として五人組と肝煎益太はその役を解かれた。この騒動の原因は,給人森氏の財政窮乏にあり,益太は給人の指示を実行していたにすぎない。幕末から明治初年にかけて地内出見で,広岡嘉吉が農業を営むかたわら寺子屋を開いていた(福井村誌)。明治4年徳島県,同年名東【みようどう】県,同9年高知県を経て,同13年再び徳島県に所属。明治9年地内に小学校があり,生徒数は男32・女3,同年の字地は大谷・岡端・大坪・中内など(同前)。同17年字地の岡端を小谷に,大坪を赤崎に改称している。明治22年福井村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7428098 |