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拝宮(近代)


 明治22年~現在の大字名。はじめ宮浜村,昭和31年上那賀村,同32年からは上那賀町の大字。明治24年の戸数80・人口390(男201・女189),学校1(徴発物件一覧表)。古くは現在の上勝町より東尾を経て木沢村に至る郡費補助道路を徒歩で縦断していた。海部郡方面にも通じ運搬は馬の背によるもので,毎日のようににぎわった。昭和6年頃まで街道の人通りも多かった。国道193号が大正11年に坂州木頭村境まで完成。昭和5年貨物自動車,同6年には乗合バスが通行可能となった。同35年幅員3.5mの拝宮谷農道が着工され,同42年総工費4,100万円余で完成した。東尾尋常小学校は,明治37年轟地区に新校舎・校庭を作り,学級数1・区域戸数168,児童数91,就学率89.8%の轟尋常小学校と改称,同39年には修業年限6か年となり,学級数2,児童数64,就学率100%。昭和22年宮浜中学校轟分校を併置して轟小学校と改称。同38年中学校を本校に統合,同43年轟保育園,同45年轟幼稚園併設,同50年水崎の桜谷小学校・桜谷幼稚園に統合し廃校となり,町営スクールバス通学区となった。江戸期に始まった人形芝居は夜上演され,1mの高さに組んだ石の上で薪を焚き柴灯と呼ばれる明りとした。昭和初期まで隆盛をきわめたが,その後人形使いの老齢化もあり,昭和39年には徳島市川内町阿波人形会館へ,人形頭42個や文化4年製造のものを含む20個余りの人形箱に収められた大量の衣裳類が売り渡された。神踊りは,幾種類かの色紙を五段または七段に切り竹竿の先に結び,これで地面を突きながら多くの人が唄・太鼓に合わせて踊るもので,毎年旧盆7月16日にぎやかに行われていたが,昭和11年を最後に中止された。また現在作られている楮の種類は,明治中期頃紀州から取り寄せられたものという。轟の村田某は,明治36年高知県国府に留学,製紙法を学び,菖蒲・拝宮の業者に技術を教えた。大正6年阿南拝宮製紙業組合が組織された。昭和16年宮浜手漉工業組合が設立され,組合員は拝宮26・長安2・坂州木頭42・中木頭村8の計78名で発足。同25年解散。現在では2戸が障子紙などを漉いている。当地特産品に拝宮柿があり,200年以上と推定される古木も多く見られる。明治40年頃石油ランプが普及した。昭和15年頃自家発電により2戸に電灯がともり,同21年頃には各戸に電気がともりラジオが聞かれるようになった。昭和34年轟小学校でテレビが見られた。昭和30年共同電話がつけられ,同37年には拝宮41戸・轟15戸・日真2戸で農協に交換台を置く拝宮地域団体加入電話が完成したが,同45年自動ダイヤル電話となった。世帯数・人口は,昭和55年45・133,同60年44・145。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7428407