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桧(近代)


 明治22年~現在の大字名。昭和42年からは大麻町を冠称。はじめ板東村,大正4年板東町,昭和34年大麻町,同42年からは鳴門市の大字。明治24年の戸数217・人口1,072(男527・女545),厩64,寺2,船2(徴発物件一覧表)。同41年乙瀬の渡船場に仮橋が架設された。大正6年板東俘虜収容所が建設され,第1次大戦で中国の青島【ちんたお】を守備していたドイツ兵捕虜1,019名が収容された。収容期間は同9年までと短期間ではあったが,ドイツ人の指導で板東町民に養豚や西洋野菜の作り方などが伝えられ,また各種の展覧会や音楽会が開かれ,ドイツ人と板東町民の心暖まる文化交流が行われた。またベートーベンの交響曲第9番を日本ではじめて演奏したのもこの収容所のドイツ人であった。大正8年大麻比古神社境内にドイツ橋と呼ばれている石造のアーチ橋を造り,また収容所内に同年兵士の墓碑がたてられた。同収容所はのち陸軍廠舎となり演習地を加え,陸軍の軍事演習の宿舎として第2次大戦が終わるまで利用された。大正9年当地から乙瀬に至る道路は郡道となり,同12年県道となった。大正12年撫養自動車が板西撫養街道を板西方面行の,昭和3年には阿波自動車のバスが板東から大寺経由徳島行の運行を開始した。両社とも昭和17年戦時下の政策で徳島バスに統合された。大正12年阿波電気軌道の鍛冶屋原線が開通,同線は昭和8年国鉄に買収され,同10年に現在の国鉄高徳本線の一部となった。戦後陸軍の演習用地は民間に払い下げられ柿・ハッサク・モモなどの果樹園となり,収容所であった陸軍廠舎は県営住宅となった。同36年卯辰越が開削され自動車の通行が可能となった。同峠は同50年県道大麻北灘線となった。昭和36年大麻山県立自然公園が設立され,当地の北部も一部が指定された。同44年板東町農協の桧選果場開場。同47年第1次大戦時のドイツ兵捕虜と板東町民の文化交流を記念してドイツ館が建設され収容所時代の資料を展示した。これが契機となり同49年鳴門市は西ドイツのリューネブルク市と姉妹都市の縁組を結んだ。同51年収容所跡地の一画にドイツ兵士の合同慰霊碑が建てられ,同53年には収容所跡地の半分以上がドイツ村公園として整備され,同58年には板東の鐘が完成,その後もドイツ村公園の整備が進められている。昭和52年主要地方道鳴門池田線のバイパスが,同56年自然歩道四国のみちが完成。同57年精神薄弱者更生施設しあわせの里が開園。産業は昭和30年代に養蚕が衰退し,米作のほか果樹栽培・レンコン栽培・養豚などが盛んとなった。世帯数・人口は,昭和40年365・1,423(男660・女763),同50年404・1,436(男679・女757),同60年438・1,534(男748・女786)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7428554